もっと責任を取らない社会を作るために

前回のつづき。

社会というのは、もっと責任を取らない社会になるべきなのだと思う。
これは、無責任な社会になれというわけではない。
要は、何でもかんでも責任を取るということを避けろということである。

例えば、プールに監視員がいる。この監視員は、誰かがおぼれたりした時に救命するというのが主たる役目ではない。プールを使う人が、そのプールで決められたルールを守っているかどうかを監視する役目。裏読みすれば、いざ事故が起こったときに、うちはきちんと最善の防護策は取っていましたよと言い訳をするためである。そのため、走るな飛び込むなと、やたら決まりことが多い。飛び込んで、もし、そこで下に人がいて事故が起こった場合、飛び込んだ人が責任を取ればいいだけのことである。そんな危険なところでは泳げないということだったら、泳がなければいい。ただし、もちろん飛び込んだ人にはかなり重い責任を取ってもらうことになるが。大事なことは、決まりがあるから飛び込まないということではなく、飛び込むときには十分注意するということである。
もちろん、プールの規模とか泳いでいる子供の年齢とかによってその責任をどれぐらい取るかには程度の差は生じる。しかし、その程度の差にかかわらず、そのプールを管理している機関は責任を回避したいあまりに、多くのことをルールによって縛ろうとし、それを社会も良しとしているのだが、それは、ルールがあると飛び込まないがルールがないところでは下がどのような状況になっていようが気にせずに飛び込む子供を育ててしまうということにつながるのである。
それを回避するためには、個々人は、社会に対して、もっと「責任を取らないこと」を求めていかねばならない。つまり、自分で回避できることに関しては、自分たちで責任を取るような社会をということである。

公園に遊具があって、それで子供が遊んでけがをした。指を切断した。亡くなった。そのような事故が起こったとき、その遊具や施設の安全管理が問題とされる。もちろん、その遊具自体に不具合があって予期せぬ事故が起こることはある。それは改善されていくべきであろう。しかし、特に不具合がなくても事故は起こる。その時は、「仕方がなかった」「運が悪かった」のである。そして、一定の割合で起こる可能性があるであろう遊具の不具合による事故。これもまた「運が悪かった」とある程度、受容すべきなのではないかと思うのだ。特に子供にとって、遊びとは、そこでいろんな体験をしながら、どのような行動をしたら危険であるかをシミュレーションしていくというような要素も持っている。カイヨワは、遊びの要素として「競争」「模擬」「運」「眩暈」と提示したが、これは、社会自体が含んでいる要素であり、遊びの中で、子供はそれをコンパクトに学ぶ。当然、そこには危険も生じ、故に、運が悪ければ事故も起こる。それは、「仕方がない」ことなのである。そのような要素がなければ、遊びではないし、そしてそもそも、生きていく上で大切なことも学べない。子供が公園の遊具で遊んでいてけがをした場合、それは、ある程度は子供の不注意であり運がなかったということであり、あきらめなければならないということだと思うのだ。そのようなことを言うのは、子供を持つ親の気持ちをわかっていないのだと言われるかもしれないが、そのような親自体を、社会が認めないようにならないと、子供が不幸なのではないかと思うのである。子供は、いつまでも親の庇護の元で生きていくわけではないのだから。

子供の問題だけではなく、社会自体が、もっと責任を取らない社会にならなければいけないのである。そして、もっと責任を取らせる社会にならなければならないとも思う。そして、責任を取らせる社会にきちんとしていないということに関しては、社会は責任を取らなければいけないと。
例えば、高速道路の橋脚のコンクリートに混ぜものをして、それで脱落し、事故が起こった場合、それに巻き込まれた者は、それを回避ができない。これは、もちろん事故にあったものの責任ではない。混ぜものをした業者の問題であり、そして、それをきちんと抑止できなかった社会の問題である。脱落は、社会に責任があるのではなく、社会が責任を取らせる状況を作らなかったことに関して責任があるのである。

何に対して責任を取り、何に対して責任を取らないかを明確にすべきである。そして、責任を無限大に広げ、何でもかんでも安全を求める状況は回避しなければならない。
学校などは、今、多くのことに責任を取り、責任を回避するために、細部に渡り、ルールを作り、安全の網で絡め取ろうとしている。子供達にとって、そこは安全であろう。しかし、今のように学校が過剰に責任を押しつけられ、そのあまりに、子供の行動にこの範囲で動けば安全ですよという線を作りすぎるのは問題である(例えば、プライバシー保護のため、靴箱に名前を書かないとか)。そのようになったのは、親や社会が、過度に責任を学校に押しつけすぎたからに他ならない。子供のしつけは、学校の責任範囲内ではない。学校に責任があるのは、その中で他者の学習する権利を損なわせないという範囲でのルール作りであり、そのルールに逸脱した者の更生は、学校の責任外の話である(ある程度までは、教育の一環として必要であろうが)。ルルに逸脱した者は、学校という公的な場で学ぶ資格を失い、その者が再び資格を得られるかどうかは、家庭にかかっている。家庭がその機能を持たない場合、その家庭自体が子供を育てるための資格を失う。場合によっては、親から親権を剥奪してもいいであろう。学校が責任を過度に取るとした場合、学校は、責任を回避するために、リスクを避けたシステムを取らざるを得ない。今の学校の問題は、そのために生まれたものである。これは、過度に責任を取ることを受容してしまった学校や教師の問題でもあるが、何よりも、それを望んだ親や社会の責任が大きい。

「責任を取りすぎない社会」というものが、成熟した社会を産む。
もっとも、いわゆるグローバルスタンダードでは、「責任を取りすぎる社会」になろうとしているし、日本もそのように進んできている。

国民が社会に訴えかけるべきことは、「責任を取れ」ではなく、「責任を取りすぎるな」であると思うのだが、いかがであろうか。