過保護なメディア

今日、偶然、日曜洋画劇場の「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」を見ていたら、途中、登場人物のキャラクター名など(〜の娘など)が、字幕で表示されて出てきていた。最初の登場シーンではない。途中でである。

先日、「エンタの神様」のアンジャッシュのコントで、「障子の向こうで客が話している電話の内容に、外の店員が自分に言われていると勘違いして」というネタをやっていたのだが、そのコントに「人命救助の方法を話している」などとテロップが付いていた。それは、聞いていてばわかることである。

最近というか、もうずっと前から、テレビ番組でしゃべっている言葉に字幕がついていく割合が多くなっている。それは、聾唖者の人にとって便利であるということで肯定的に語られることが多いのだが、私は、あまり好きではない。
もちろん、字幕が必要な人がいるのは確かだが、今の字幕の氾濫はそのような趣旨に基づいてそれを選択しているとは思われない。

前述の2例は、その典型で、明らかな表現の上での過保護である。
音声で、ある情報が語られているのであれば、視聴者はその情報から聞き取ることが出来る。場所がわざわざテロップで出なくても、以前出たシーンや話の流れから想像できる。
全てが、文字情報として明示され、想像する余地をなくした表現ばかりを行っていたら、その表現は脆弱なものとなる。

いや、そもそも、テレビ自体が、もうずっと前からそのような低劣な表現メディアに成り下がっていると言われれば、その通りなのであるが、生まれた時からのテレビ好きとしては、そんな風になっていく流れは、悲しいものである。