「椿三十郎(森田芳光監督版)」

本来、映画の感想は、観てから語るべきものなのだが、この映画に関しては、事前に情報が多く表に出ており、そのため、実際の映像に触れることも多く、その印象も、かなりかたまっている。また、この映画の場合、監督が、「あえて、オリジナルの脚本をそのまま使って、作った」と明言しているため、おそらくその印象がはずれることは、それほどあるまいと考える。

失敗作であると思う。いや、意欲は買う。挑戦してみたい気持ちはわかる。監督が、自分の力量を計るという上で、このような企画は面白い。しかし、つらいところに来ていると思う。森田芳光のデビューの頃からのファンとしては悲しいところなのだが、少なくとも現段階での監督の力量の差(デビュー時なら拮抗できたかも)を再認識し、黒澤明の偉大さを再確認できるという意味しかないものとなるだろう。

キャスティングで、そもそも運命が決まってしまった。織田裕二という俳優は、とにかく華がないのである。脇役や、それほどキャラクターイメージの強烈でない作品の主役であれば、そこそこの印象を観客に与えうる俳優になれるかもしれない。しかし、全く同じ脚本で、三船敏郎が演じた役を演じるということになると、その俳優としての器の差は歴然である。
例えば、今、大河ドラマ風林火山」で山本勘助を演じている内野聖陽は、演技プランとして三船敏郎の若い頃の演技をトレスしていると考えられるが、それによって醸し出している印象の深さと比べてみよう。織田裕二が、もし、内野の代わりに大河ドラマ風林火山」の山本勘助を演じたと考えると、それがどれほど、小粒な印象のものになることか。単にタイプとしてでなく、俳優としての力量に大きな差があるのである。
もちろん、織田裕二は、三船敏郎とは違う。別な、彼なりの椿三十郎を演じればいいだけの話である。しかし、では、そこになにを乗せればいいのか。乗せられるだけの何かを、織田裕二が持っているのか。これまでの実績ではそれが示されてはいない。また、実際、公開前にテレビで放映されている多くのカットを観ていても、新たな何かはそこにはない。まるで、新春スターかくし芸大会でのパロディを観ているような薄っぺらなものである。

キャスティングで、もう一つ残念だったのは、睦田夫人を演じる中村玉緒である。この役は、オリジナルでは、入江たか子が演じている。非常に不思議な役である。この映画の主人公はもちろん椿三十郎だが、その陰の主人公は、三十郎を抜き身の刀と言いたしなめる睦田夫人であり、その言葉の呪いにかすめとられてラストまで突き進むと言ってよい。西遊記での玄奘三蔵にあたる位置であり、その超然とした雰囲気は、.菩薩を体現している。
中村玉緒はとても素晴らしい役者であるが、しかし、今回の演じている印象は、菩薩とは程遠い。菩薩を演じようと思えば、そこまで演じきれる役者であると思うが、監督にそのような演技プランがなかったのであろう。

オリジナルの「椿三十郎」も、実は、その睦田夫人の扱いに関しては、失敗作だったのかもしれない。その超然とした雰囲気の印象があまりに強く、後半での三十郎たち一行の行動が、全部、お釈迦様の手のひらの上のように思えるものとなってしまったからである。だから、ラストシーンでの、三十郎の怒りと一喝は、まさに、黒澤明自身の怒りであったのかもしれない。睦田夫人の見せた菩薩的な達観は、黒澤明のそれまでの作品の中には見られない何かであった。それに対して、「あばよ」と背を向けて去っていくしかないのである。そして、そのような矛盾を包括しているからこそ、この作品の印象は重層的なものとなり、面白い映画ともなったのである。

であるが故に、森田芳光監督が、立ち向かえる部分は、この菩薩であったと思うのである。黒澤明がもやもやとしたままで突っ走った先の何かを、全く同じ脚本で描くことが、演出とキャスティングで可能だったはずなのだ。しかし、それは、どうやら、このリメイクでは、なされていない。そもそも、そのような気持ちがあったようにも思われない。失敗作であろうと断じるのは、それ故である。

映画に行こうとは思わない。失敗作であるとこれだけ思う映画、さすがに劇場で観ようとは思わない。いつか、ソフト化されたものを観たときに、「ああ、自分の判断は間違いであった」と思い直すことになれば、森田芳光のファンとしては、とてもうれしいことであるのだが。