「なぜ、人を殺してはいけないのか?」の問いの裏事情

「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いには、実は、もう一つややっこしい裏事情がある。
それは、歪んだマゾヒズムというものだ。
言葉は自虐史観というのと似ているが、論点は正反対である。

下記の文章、「NHK大河ドラマの真実(笑)」は、大河ドラマ「武蔵」の放映の頃に書いたものであるが、読んでいただけばわかるように、多くの大河ドラマは奇妙な歴史観で成り立っている。「主人公は平和主義者で、この世からいくさをなくしたいと思っていたり、好んで争いをしたくないと思っている。しかし、周りの者は、そうは思っていない。主人公は、時代のうねりに飲み込まれるか、他者が彼の思想を理解していないことにより、やむなく・・・」という流れである。しかし、周りの者は、そうは思っていなかったのだろうか。いくさの好きな人間などいない(いることはいるが、多数ではないだろう。侍はいくさがないと立身出世できないとはいえ、他に立身出世できる手だてがあれば、そちらを選ぶだろう)。とはいえ、お互いの利害関係が交錯し、自己の利益を得たいと考えたとき、そこに戦が起きるということだ。一揆がしたい百姓はいないし、一揆が起きるまで百姓を締め付けたい武士がいるわけではない。皆、自分の利益を守ろうとするその意志が相手の意志とぶつかり、それが好むと好まざるとに関わらず争いや戦や殺し合いに発展するというだけのことである。しかし、大河ドラマでは、主人公を「人を殺してはいけないと思っているのだが人を殺すことになってしまった、いわば被害者」として描いてしまう。

NHK朝のテレビ小説(朝8時15分30分)」でも同様である。私が知る限り、あの「NHK朝のテレビ小説」で太平洋戦争の時代を描いた場合、その視点は百パーセントに近く、被害者のものである。
「戦争は悲惨だ。もう二度と起こしてはならない」
それは、そうだ。だが、では、誰がその戦争を起こしたのか?誰かが起こさなければ始まらなかったはずだ。また、起きたことに巻き込まれたのだとしても、その巻き込まれる状況を産み出すことに対して、手をこまねいて何もしなかったのではないのか。そのことに荷担してはいなかったのか。緒戦での大勝利で万歳を叫んでいたのは誰か。「天皇陛下の御ために立派にその命を」と言い、戦地へ若者を送り出したのは誰か。国家の命ずるままに命を捨てる臣民を育てる教育を子供たちに対して施し、戦争が終わると180度方針を転換し、民主主義を唱え始めたのは、誰か。そして、何よりも、他国に攻め入り植民地化し無理矢理自分たちの思想を押しつけ、たくさんの民間人を虐殺したのは、日本人ではなかったのか。
そういう姿は、ほとんどこの「NHK朝のテレビ小説」では描かれていない。このドラマだけではない。映画であろうがTVドラマであろうが、太平洋戦争やその前の日中戦争等を描いたドラマで、加害者の視点を描いたものは、皆無に近い。
それらの映画やドラマの中で、彼らは言う。
「私たちは、だまされていた」
では、だましたのは、誰だ。一人ではあるまい。ほんの一握りでもない。皆が誰かにだまされ、その次には、誰かをだましていたのだ。

戦後、日本は、少なくとも戦前と同質の軍備は捨て、平和主義国家として生まれ変わった。
「平和は正しい」「戦争はいけない」
戦争を体験してきた世代も、口を揃えて同じ言葉を言う。
だが、彼らは、皆がそう思っていたのになぜ戦争を起こしてしまったのかを語っては来なかった。
のちの世代も、そのことを検証しては来なかった。
自分たちが、単に被害者ではなく、時として加害者になる可能性があるということも、語っては来なかったのだ。目をつぶってしまって。
日米安全保障条約により米軍に基地を提供し米軍機が北ベトナムを北爆している時、その爆弾で北ベトナムの人たちを殺しているのは日本人だし、日本が支持を表明している米国のイラク戦争で、イラク人を殺しているのも、もちろん日本人だ。その是非を問うているのではない。ただ、それは事実としてあるということだ。

故に、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに答える場合、実は、「皆が、人を殺してはいけないと思っているのなら、この世の中は殺人もなく戦争もない世の中になっているはずなのに、なぜそれは続いているのか?」という問いに、本来ならば、答えなければならなかったのだ。