運転手は被害者だったのだろうか

106名の死者を出したJR福知山線での列車脱線事故。私鉄との競争による過密なダイヤと会社からのペナルティにより運転手が追いつめられていたということがクローズアップされ、あたかも、この運転手も被害者だったという論調になってきている。加害者は、JR西日本であり、運転手も非人道的な管理の被害者であったのだと。
しかし、皆がすべてその方向で語る今のマスコミの論調は、むしろ、さらなる事故の誘発につながるものなのではないのだろうか。
運転手は確かに被害者だったのかもしれない。しかし、忘れてはならないのは、彼は、何より「加害者」だということである。
次々と新たな情報が出てくるため、現段階での推測しかできないが、彼は、「オーバーランをなかったことにしてほしい」と、車掌に対して、車内通話で話をしている。その話をしている時間は、彼の過失によって生じた一分半の遅れを取り戻すために加速している時間で、そのあとにブレーキをかけて、事故現場の前までに減速をしなければいけなかったはずだ。彼はそのことを怠り、そのために彼以外の105名を死に追いやった。保身のために行っていた行為に注意が向いていたために105名を殺したのである(もちろん、新たな調査でブレーキ故障などの機械的な要因が出てきたら全く別な話である)。
「死者にむち打つ」のを忌避する気持ちはわかる。しかし、本来加害者であった者を被害者の位置に持ってきて、常に上へ上へと責任を持っていくのは、かえって事の本質を見えにくくすることなのではないかと思う。会社の異常な管理体制は厳しく断罪されなければならないが、しかし、大多数の乗務員達は、その中で、始末書を書かされることもなく、安全に気を配りながら時間厳守のために、日々の業務を行っている。今回の事故を起こした運転手を被害者として擁護しすぎることは、他の多くの真面目に業務を行っている乗務員達に対して失礼なことだと思う。
責任を上へ上へと持っていき加害者も被害者になってしまうのは、戦争責任のメカニズムと同じようなところがある。JRの労組は、ここぞとばかりに、会社の責任を訴えているが、このような事故が起こるまで、危険な状況に対してそれを連帯して拒否できなかった労組の責任でもあるのだ。そして、何より運転手個人個人の責任でも。

ところで、今、社会の規範が緩み、原理原則が失われつつある。現在、どこの学校でも最大の悩み事は、「子供の遅刻、時間へのルーズさ」であろう。子供もさておき、親も時間通りに集まれない。行事の時に、集合時間を守れない親も大変多い。それに対して適切な手だてを打てないままで小中高の教育を受けた子供が、さて、社会に出たときに、どうなるかということである。どこの会社でも、時間へのルーズさ、それも、「遅れてどこが悪いの?」という開き直りに困っているはずである。今のご時世、強く言えない。かなり、時間や決まり事に対してルーズな気分が漂っているはず。 で、そういう中、鉄道会社だけに、時間に厳密な新入社員が入ってくるとは思えない。同じような感じでなし崩しにルーズな部分が出てきていると思われる。そこで、今回の事故で、「時間厳守が行き過ぎた」ということになったらどうなるであろう。そう・・・教育界での「ゆとり教育」と同じことになる可能性がある。それは、さらに、危険な状況を生む可能性があるのではなかろうか。「時間優先が問題」というのを言い過ぎることによって、起こる問題の方が私は心配である。時間厳守は、鉄道運行の柱だと思うので。