靖国神社公式参拝問題

今回は、日中韓の懸案となっています靖国神社公式参拝問題です。
この問題に関しては、私の義理の叔父Sさん(神官をしていた)との実際の手紙のやりとりの内容で語らせていただきます。

私の「靖国神社公式参拝反対」の意見に対しての叔父の手紙の内容は以下のようでした。
・日本人として靖国神社に拝礼をするのは、日本国で親から産み落とされた
 人間が行うこととして、至極もっともなことである。
靖国神社にご鎮座なされている先人があって現在の平和で暮らしよい国がある。
 この事実を忘れてはならない。
・米国に総理大臣が国賓として招かれる場合に、まず、無名戦士の墓に参拝する
 のが礼儀である。英霊に感謝の念で参拝するのは当然。
・大海の藻屑となったり、異国の山野で身を風化し生きて帰国できなかった人の
 英霊を何故に参拝したらいけないのか。言語道断である。
A級戦犯の人も時代の趨勢でどうしようもなかったと思う。当時、戦争を扇動
 した人が靖国神社に祀られていても、戦争の責任をその人々だけに負託するの
 は正しいとは言えない。

その意見に対して送った手紙が、以下の通りです。

全く間違っています。
靖国神社にご鎮座なされている先人の霊をなぐさめるためにこそ、今の靖国神社をなくし、真に国民が祀る場所を新たに設ける必要があるのです(それは、戦没者慰霊の碑のみとすることでもよいと思います)。
Sさんは、まだお若い(注・叔父は私より30歳以上、年上です)。私がこういうと非常に失礼な物言いですが、学問の上でのこととしてあえて言わせていただきます。敗戦の時、Sさんは、まだ小学生ということでしたね。私と同様、あの戦争においては、直接兵役に従事はしていなかったのですね。私は、物心ついてから、ずっと、あの戦争とはなんだったのかということを考えてきました。ですから、あえて言わせていただきます。まだまだ、お若いのです。ご勉強なされなければなりません。

あの戦争で、いかに多くの人が無謀な作戦に駆り出されたか・・・「失敗の本質」などの良書もありますし、多くの記録、手記などを読まれることをお薦めします。無謀な作戦。兵站という秀吉の朝鮮の役でさえ周到に考えられていた当たり前の発想の欠如。科学的思考のなさ(例えば、装甲がハリボテに過ぎない戦車の使用)。それらは、決して、あの頃の大日本帝国がぎりぎりの選択を行い、やむなくそのような状況に陥ったというわけではありませんでした。冷静に国の資本力や科学力を判断し対英米戦が無謀であることを主張していた人も少なからずいました。しかし、そのようなきちんとした判断のできない大多数の人々、そして、その大多数に盲従してしまう人々によって、あの不幸な戦争が始まってしまいました。

玉砕の島でのその死者の多くは、直接戦闘によって戦死したのではなく、病死や餓死です。戦う余力を残していない軍隊を、作戦立案者のメンツや輸送船が確保できないということで、次々に玉砕させていったのです。この狂った状況は、なんでしょう。誰が、責任をとってくれるのでしょう。無念に死んでいった若者達の屍を
果ては、精神力によって、自らを爆弾と化す、神風特別攻撃隊という発想。国家が、そのようなことを若者に課してまで、守ろうとしたもの。それは、国体でした。国民ではありません。万世一系という幻想に固められ、全ての人間を一人の人間の家臣の民として貶める皇国史観という幻想によって作られた国体という制度を守るために、散っていったのです。それも、精神力さえあれば鉄をも穿つという妄想を持った狂人達の発案した制度によって。
この無念さは、どうすれば慰められるのでしょう。
彼らは、国体を守るために死んでいきました。そして、その彼らを祀っている場所が靖国神社です。「靖国神社であおう」という言葉の元で、ほとんどの若者が犬死にさせられました。靖国神社は、その象徴です。靖国神社を肯定するということは、「国体を守るために命をなげうち、死んだあとは、靖国神社であおう」というその思想自体をも肯定するということです。死んでいった者たちが、戦前の歪んだ制度の象徴である靖国神社に祀られて、本当に喜んでいると思いますか。それは、大変失礼なことだと思いませんか。

若者を無謀で悲惨で無益な戦場へと送り込んだ多くの将校や軍閥、政治家などは、銃後にいて、命を捨てることのないまま敗戦を迎えます。
生き残った者や、のちの世代が、国を守るために死んでいった(それは、「国体を守るという思想に騙されていたわけですが)人たちの霊を弔うのは、当たり前のことです。彼らの存在があってこそ、今の私たちがあるのですから。そして、彼らの霊を弔うためにこそ、いかにあの戦争が無謀で無計画でそして近隣諸国に対して多大な被害をもたらすものであったかは、まず、生き残った世代がそれをきちんと反省し当事者を糾弾し、そして、のちの世代がそれを検証し受け継いでいくことが必要だと考えます。ところが、それが全くできていません。そして、その一方で、靖国参拝があるのです。
先の戦争中に命を賭して国のためにと戦いそして散っていった人々の思いを大切にしなければいけないというのは、わかります。しかし、その思いが、実は軍閥や政治家の勢力争いに利用され財閥の資金源となり、かつ、それによって引き起こされた戦争は近隣諸国の多くの命を失わせる結果となったということも忘れてはなりません。
彼らは、いわば、利用されました。そして、その、利用するための象徴的な機関が「靖国神社」です。利用された霊を弔うためにこそ、靖国神社という存在の意味を、全否定する必要があるのです。そうしてこそ初めて、彼らの霊は成仏できるはずです。

靖国神社の存在を肯定するということ、例えば、首相及び政治家などの参拝、また、その行為自体を肯定すること。戦前の靖国神社の表向きの理想的なイメージだけをとらえて、その影の部分まで深く考えないこと。これらは、皆、先の戦争中に死んでいった多くの人々・・・例えば、インパール作戦という無謀な作戦で餓死した3万人の骸(むくろ)を足で踏みにじるような行為と、私は考えます。声なき骸骨からの怨嗟の声が聞こえます。

靖国神社を廃した上で、戦没者を合同に慰霊するというのが正しきあり方だと思います。ただ、もちろん、廃するということを望まない方も多くいらっしゃるでしょう。ですから、存続はする。ただし、国家としての公式な参拝行事は一切行わない(戦没者の慰霊は公式に行う)ということが、現状では唯一の解決策だと思います。理由は、前述した通りです。そもそも、国家のために戦って亡くなった人たちが、すべて神になるという発想自体が、日本神道の長い歴史の中になかったものです。もちろん、無念な死を遂げた貴種が祟りをなさないように神として祀られる例はありますが、最初から神となることを前提としてというのは、前代未聞です。神道の奇形と言ってもいいでしょう。
ちなみに、国賓として他国に招かれた元首が無名戦士の墓を訪れるのは、慰霊のためであり参拝ではありません。

ところで、他国から靖国神社公式参拝問題で、よく、A級戦犯合祀のことが問題視されていますが、私は、そのこと自体は、問題視自体がおかしいと思います。多くの人が指摘しているように、極東国際軍事裁判自体は、戦勝国による一方的なものであり、明らかに不適切なものです。そのことは、本来、きちんと反論すべき事でしょう。ただし、では、なぜ、日本政府や国民がこれまできちんと反論してこなかったか。それは、日本国自体が、A級戦犯スケープゴートとして、戦争責任に関して曖昧にしてきたからです。極東国際軍事裁判の存在自体を問題視した場合、今度は、天皇も含めて、自分たちの手で戦争責任をはっきりさせなければなりません。
戦争を起こしたことの責任というわけではありません。誰が、無謀で残虐で無意味な具体的な行為を自国民及び他国民に対して行ったか、その責任は誰がとるべきかという上での戦争責任です。もちろん、好むと好まざるとに関わらず、帝国陸海軍の全ての統帥権天皇が持っていたわけなので、その最大の責任は天皇にあります。
ただ、この場合、政治的な権限を持たず、また、行使することを良しとしない天皇という存在に、統帥権全権があるとした明治憲法とその後の政府解釈、そしてその政府解釈を是とした国民に問題があったわけで、その全ての責任を天皇に課すことは、むしろ無責任な話でしょう。実は、天皇制自体が、そのような責任の曖昧さを具現化したものであり、それ故にこそ、最大の国家としての責任の取り方は、天皇制自体の廃止であると、私は考えます。それは、国家として、新たな荒波へと船出をするような思いのものにもなりましょうが、それだけのことを、一方的に近隣諸国に対して行ったということは確かなのです。
そして、その上で、極東国際軍事裁判をやり直さねばなりません。今度は、自国民の手で。

以上が手紙の内容です。以下、補足します。

各国の王制も含めて、ある血族が世襲により他の人間と別な社会的位置を占める、あるいは担うということは、例えば日本の天皇制のように歴史的にある段階では有効に働くこともありますが、その体制としての歪みは、先の戦争のような悲惨な状況を産み出す危険性をもはらんでいるものです。人類は、いつか、全てがその体制から脱して、次の段階へ歩み出すべきだと、私は考えています。

言うまでもなく、戦前の天皇制は、王を神とした絶対王制です。王権神授どころの話ではありません。王イコール神です。さらに、その神を全ての国民(臣民)が信仰することを強制される体制によってできた国家が、大日本帝国です。
我々が、大事にすべきものは、大日本帝国の体制なのでしょうか。それとも、戦後の体制なのでしょうか。
私は、まだいろいろと改善すべき点などがあろうとも、戦後の体制の方があらゆる点で優れており、大日本帝国の体制は、唾棄すべき存在だと思います。その体制の残滓として今まで存続し続けてきたのが、靖国神社です。どこの国に言われるということではなく、自国の問題として、靖国神社という存在は否定しなければならないと、私は考えます。

最後に一言。

靖国神社への公式参拝は当然だと思っている人。あなたは、呪われていますよ。少なくとも私が英霊なら、あなたのことは、許しません。あなたが私を殺したのだから」