醜い現代アート

mukobiaoi2008-02-21

NHK迷宮美術館の今回、「型破りアート」というタイトルで、現代美術を取り上げていた。
その中で、今回も取り上げられたのが、クリストとジャンヌ・クロードの「梱包されたライヒスターク(帝国議会議事堂) 」。ドイツ国会議事堂を布ですっぽり覆ってしまうアートである。私は、以前に見たときも、思った。
「醜い」と。

私は、現代美術に関しては、その理念とかはよく理解していると思う。
だから、現代美術のあり方にはほとんど偏見は持ってないと思う。
ただ、もちろん、それぞれに対し、美醜は感じる。

大プロジェクトで自然の中に人工物を置いたり、クリストのように全てを布で覆ってしまうというあり方。私は、あれはかなり醜悪なものに思うのだ。
想像力のある人なら、そのプロジェクトを行うためにどれだけの労働力が費やされるかがわかるだろう。作業として行われる布を張り巡らせる仕事に従事している人々の、実際どれぐらいが、そのプロジェクトに意味を感じたり愛情を感じたりしているだろうか。それが、人の住む建造物であれば、一生自分がそこに住むことのないものであろうとも、何かしら、意味を見いだせるかもしれない。しかし、このアートに、一体何を感じればいいのだろうか。いや、面白いと感じている人も少なからずいるかもしれないが、意味のないものと思い、単に仕事としていやいやその作業をこなしている人が、どれほどいるであろうか。また、このアートに使った布はどうなるのだろうか。そのようないろいろな要素を包括したものとして、このアートはある。私は、それが、醜いと思うのである。もちろん、最初から、そのような醜さを含めてアートとして提示しているのかもしれないが。

多少、身びいきな話になるが、日本では昔から、生活から遠いものよりも、むしろ生活に近いものの中に美を感じるような流れがある。
茶道や華道などはそうであるし、また、現代に至るまでのサブカルチャーの優位にも同様な根があるであろう。

「美」とは関連性の中にあり、その関連性を無視したところでは認識できない。おそらく、現代美術は、その人と人との関連性を含めたものとして、より深化していくものなのだと思う。そういう点で、クリストのアートは、近代の印象派や同時期のムーブメントから比べても、古いのである。あれは、ピラミッドに美を感じようとする試みにすぎない。

関係性を無視した形で、アートが新たな表現形式の提示としてのみ存在するのであれば、例えば、「9.11アメリ同時多発テロ」は、まさに究極の現代アートであろう。あれは、その映像を生み出すことにより付随する関係性を全く考えなければ、実に美しいアートであった。そばで身近に見ていたら、もっとそうであったであろう。

アートというものを、単に「価値観の破壊」ということだけで捉えれば、そのようなテロはまさにアートと化す。また、個人が作り得る究極のアートと言えば、核爆弾によるきのこ雲に他ならない。美醜で判断せずに、それを、客観的にアートというのは、いっこうにかまわない話である。しかし、それを生み出そうとする行為をもアートと言う話になると、別である。

クリストなどの大規模プロジェクト的アートは、そういう意味で「醜い」と思うのである。