給食のパンを詰まらせて死んだら仕方がない。当たり前のことだ〜千葉・船橋市の小学校で男子小6生が給食のパンをのどに詰まらせ窒息死

もしかしたらと思ったら、またも、学校が問題とされている。
なんと、愚かなことだろう。
食べ物を喉に詰まらせたら死ぬ。それは、生き物なら当たり前のことだ。そういうことは、一定の割合で起こることである。仕方のないことなのだ。

この世界は、楽園ではない。
永久の生命を保証されたエデンの園ではないのだ。
世界中、ほとんどの場所では、人々は明日の食事を確保するために戦い、その中で多くの子供たちは死んでいる。生きることが戦いであり、好むと好まざるとに関わらず起こる不測の事故による死は生の隣にある。当たり前のことだ。

子供は、早食い競争をやっていたと聞く。そのことを学校側が隠蔽したということを両親もマスコミも問題視しているようだが、では考えて欲しい。子供が早食い競争をやり始めたからと言って、学校がいちいち止めなければいけないのか。また、そのようなところまでいちいち干渉するような学校でいいのか。
学校側が隠蔽したくなるのも当たり前のことだ。早食い競争をしていたという話をしたら、次には、「なぜ、事前に注意とかしなかったのか」とマスコミも叩きまくるし、世論もそれにあおられるし、これは断言できるわけではないが、親も学校の責任とするのであろう。

極端なことを言えば、早食い競争のようなことをやって喉に詰まらせて、死にかけて、「ああ、食べ物はゆっくり噛んで食べなければいけないな」ということを学んでいくのである。それを、最初から、あれもダメこれもダメといちいち禁止事項にしていったら、何も学ぶことができない。そのような学びの中で、中には死ぬ子供も出てくるであろう。しかし、それは仕方がないことだ。成長とは、この世の中での戦い方と学んでいくという過程であり、その途中で、亡くなる子供も出てくる。それは、その子供がいいとか悪いとかに関わらず、運が悪かったということだ。その要素まで想定して、成長過程で起きうる不測の事故の可能性まで全部つぶしていったら、子供は随分やせたものとなる。肉体的にも精神的にも。
そして、今回のことが早食い競争で起こり、その責任を本人でなく誰かに問おうとしたら、それは百パーセント、親である。親が、「食事の時は、よく噛んで食べること」というのを小さい頃からしつけしていたら、それで解決する話である。親がすべきことは、責任追及ではなく、後悔である。それは他者から言われなくてもよくわかっていることであろうが、学校の責任を問いだしている状況に対しては、苦言を呈せざるを得ない。
「誰かが殺したのだとしたら、それは、親が殺したのである」
でも、私は、誰かが殺したのだとは思わない。
人は不測の事故で死ぬ。
今回のそれは、運が悪かっただけのことなのだ。

ちなみに、この亡くなった子供は、身長170センチ以上あったということである。まだ未成熟な子供故に学校側が細かい配慮をしていかなければならないという低学年の場合と大きく違うということがわかる。身体は立派に成長した大人である。お年寄りではなく頑強な大人でもたまにある飲食物を喉に詰まらせての死ということが、今回、たまたま給食で起こったというだけの話である。

ここで、ある番組を紹介したい。

昨年、NHK教育ETV特集で放送された「里山保育が子どもを変える」である。これはすごかった。子供たちの活き活きした振る舞いを描くドキュメンタリーとしても秀逸(映画にしてカンヌとかに持って行ったら賞を取れるかもしれない)だったが、何よりも、あれだけ子供たちが、リヤカーで子供を押しつぶしたり石を投げ合ったり木の枝でつつきあったりしている状況の中、それをぎりぎりまで見守ることができる大人たちと、それに干渉することなく撮れるスタッフの姿に。
頭の上では放任を語っている自分も、あの場にいたらつい過干渉してしまうだろうと思った。そうならないためには、自分の思考法に余程のパラダイムシフトが必要なわけで、その一つにこの番組はなったと思う。

ちなみに、今週、10月26日(日)の午後10時から90分、NHK教育で続編が放送される。タイトルは、「里山で子どもたちが輝く」である。

この番組を観たら、今回の給食のパンを喉に詰まらせ亡くなった事故で、それを事件として騒いでいるマスコミやコメンティターがいかに愚かであるか、よくわかると思う。ぜひ、多くの人に観ていただきたい。