宮崎県はいらない〜「中山成彬国土交通相、問題発言(日教組の子どもは成績が悪くても先生になる。日教組はガン。成田空港反対派住民はゴネ得。日本は内向きな単一民族…など)の責任を取り辞任へ」

私は、宮崎出身である。
で、それを前提にして言わせてもらうと、もし、近々行われるであろう衆議院議員総選挙中山成彬国土交通大臣(今日にも前になるだろうが)が再当選するぐらいなら、宮崎県はなくなった方がいいと思う。
別に、県はなくなっても、郷土は残る。

発言に他者への配慮がなく歴史的認識が歪んでいる議員の失言は後を絶たない。現総理も含めて。
それらの議員が、失言(本人は失言と思っていないだろうが)を何度繰り返そうとも、それら議員がいつまでも議員を続けているのは、その失言を黙認している選挙区があるからである。いや、黙認ではない。少なくとも選挙で多数の票を取り当選するということは、その失言を積極的に支持しているということである。いくら、世論で、それらの失言を不適切だと認識し、その議員を行政の主要役職から辞任させるムーブメントを作り出そうとも、その議員の選挙区が支持してしまえば、いつまでもその議員は政治の中枢に居座り続ける。その選挙区、地方にとっては、その議員は、多くの利権をもたらしてくれる大切な議員なのかもしれない。その議員がどのように品性下劣な人間でも、金をもらっていれば、支持してしまうという、そのような愚劣な構造で、癒着が成り立っている。
簡単な話だ。
そのような構造を断ち切るには、地方をなくしてしまえばいいのである。

地方分権、地方への権限委譲に反対している議員や政治評論家はほとんどいない。少なくとも、マスコミなどでこの問題を取り上げるとき、地方分権というのはエコロジーと同じように、議論の対象にすることさえ問題外の正しき前提となっている。
私も、地方分権には賛成である。しかし、一般的に言われているであろう見地からとは、少し違う。それは、「一度、痛い目にあった方がいい」という意味での賛成である。なぜなら、中央集権から地方分権地方自治体への権限委譲によって、確実に日本は悪くなるからである。

小泉構造改革によって、地方が切り捨てられてきたと非難されている。私は、小泉元総理の行ったことで、少なくとも経済面での改革に関しては、全面的に支持している。地方は切り捨てられなければならなかったのである。
無駄な道路、使用者のいない公共施設、それらが地方の経済を潤し、利権をもたらす政治家の懐をも潤してきた。政治家にとっても地方の企業にとっても、それら公共事業は、その必要の有無はどうでもいいことだったのである。要は、金が動くかどうかで、動きさえすればそれは確実に皆の懐を潤してくれる。夕張市のように、将来、子供たちに禍根を残すような状況に陥ろうとも、今、現実に懐が潤えばいいのである。それがのちのち破綻しようとも、その時は、お金を持ってとんずらすればいい。困るのは、その無駄な事業を繰り返している時にうまくおこぼれに与れなかった愚図な者だけなのだから。
そのような、たかりの構造で、中央と地方との関係ができあがっていた。その構造を絶つ突破口を切り開いたのが、地方切り捨てといわれた小泉構造改革であった。地方において認識され検証されなければならないのは、資金源が絶たれたことの是非ではなく、それまでの構造の反省と意識改革である。しかし、それが十全に行われているとはいいがたい。地方切り捨ての大合唱は、単に元の状態に戻せと言う大合唱にすぎない。そんな地方はいらないのである。

例えば、道路。

宮崎県の東国原知事は、宮崎県の道路がいかに不足しているかを切々と訴える。彼の話を聞いていると、「ああ、無駄な道路を作りすぎるとつい言ってしまうけれど、地方ではまだ十分道路が整備されていなくて、必要な道路を作る予算がないところもあるんだな。中央の考え方だけで地方を論じるのは、よく知らない者のおこがましい考え方なんだ」というような思いにかられる、そんな弁なのであるが、これは詐術である。

私は、宮崎に帰省するたびに、次々に新しい道路ができていることに、毎回、驚いている。
まるで、シムシティのように次々と整地され、新たなルートがつながっていく。それは、便利になるということでもあるが、同時にその背景には、道路整備に投じられる潤沢な資金があることをも感じざるを得ない。また、宮崎では、ほとんど車の通らない道路も、非常に多い。それら無駄な道路が次々に作られる。それも非常に立派な道路である。
もちろん、宮崎県内でも、地域によっては、必要とされる道路がほとんど整備されていず満足に補修されていない道路も多い。しかし、豊かな都市部(宮崎市など)の無駄な道路に費やされる資金が地方にもたらされることはない。票にもお金にもならない地域での小規模な道路整備にお金をまわすぐらいなら、交通量がほとんどなくっても立派な道路や橋をがんがん作った方がいい。そのような状況での、東国原知事の発言である。本当に道路が不足しているというのであれば、県内で必要とされている地域に重点的に予算を傾斜配分してやればいい。しかし、そのようなきつきつのことをやっても、県内企業も政治家も潤わない。それぐらいなら、東国原知事知名度を利用して、地方が切り捨てられ困窮しているんだという幻想(それは、確かに切り捨てられているのであるが、自業自得である)を創り出した方がいい。そうすれば、また、以前のように、景気回復の名の下に、無駄な公共事業を行うこともできる潤沢な資金が地方へとばらまかれる、そんな蜜月時代が、また、戻ってくるだろう。

私は、宮崎県が大好きである。どの地方の人も自分の出身地を愛している人は多いであろうが、特に宮崎県民は、愛県心が非常に強い。私もそうである。
だから、あえて言わせていただけば、自県の利益、地元企業の利益、個々人の利益になるからと言って、もっと広い、国全体の利益にならないような選択をし意見を発していくのであれば、そのような県は、ない方がいい。

そんな県は「いらない」のである。