「マゾルナ」の意味

新しいブログを起ち上げるとき、「マゾルナ」というタイトルはかなり前から考えていた。この名前(「マゾルナ」は「マゾるな」の意)に決めたのは、先日のある出来事があったからだ。

先日、私が、家を出て駅へと向かおうとしていた時のこと。
家のすぐ前、丁度、大通りから一歩住宅街へ足を踏み入れたような位置で、のぼりを持った60代ぐらいの人と、50前後のマイクを持った人がいる。のぼりには、「日本共産党」の文字が。私が、その二人に背を向けて、駅へと足を向けたぐらいのタイミングで、それは、始まった。

「・・・今の自民党小泉政権の政策は・・・」
私の住む辺りは、閑静な住宅街で、人通りもまばらである。大通りにしたって、車は通るが人通りはそんなに多くない。このマイクパフォーマンスは、明らかに、住宅の中での一般居住者に向けて行われている。それを意図したボリュームで彼は自説を呼びかけていた。
自分はこれから外出するところで、そのままその場所を立ち去ってしまえばそれですむわけなんだけど、私はそういうのは好きじゃない。
で、10メートルほど、駅の方に歩を進めた後、踵を返し、そのマイクの彼の方へ向かった。彼は、いきなり目の前に戻ってきたこちらの方をちらりちらりと見、気にしつつも、演説を進める。ちなみに、演説の内容は彼の頭の中にある事柄でなく、紙に書かれた原稿を読んでいた。
途中で止めるのは失礼なので、一段落ついたところで、彼に声をかける。
「あの・・・」
「はい」
「この辺りは、一般の住宅地です。赤ん坊が寝ているご家庭や、今、何かをやっている人、映画を見ていたり、いろんなことをしている人がいます。ですから、このようなことをされる場合には、このような場所ではなく、駅前とか、別な場所を選ばれた方がいいと思うのですが」
「この辺にお住まいですか?」
「はい。ただ、私は今から外出するところです」
「もし、お住まいの方からご苦情がありましたら、すぐやめますので」
「あの、しかし、実際、住んでいる方で迷惑だと思った方がいたとしても、苦情にまでは出てこられないと思うんです。例えば、この横にマンションがありますけど、迷惑だと思っても、なかなか出て来れないでしょう」
「ここは、公道です。公道で、演説をすることは、公職選挙法に従った行為です」
「法にあるから、正しいというのではなく、私は、あなたがどう思うか、お聞きしたいのです」
選挙カーの演説でも、やっていることじゃないですか」
選挙カーでのそれも、私は間違っていると思います。他がやっているから、自分のやっていることも正しいという考えはおかしいでしょう。私は、共産党・・・日本共産党は、他の政党と一線を画して、国民の立場に立った独自の路線を歩いていると思います。その姿勢自体には、共感するところも多いです。しかし、他のところがやっているから自分もだったら、日本共産党の独自路線はなんなんです?日本共産党だからこそ、住んでいる一般住民の立場に立って考えなければいけないでしょう」
「私たちには、表現の自由というのがあるんですよ」
表現の自由には、同時に、公共の福祉に反しないという制限が付きます。公共の福祉という範囲をどの辺りまでと考えるかは、むずかしいことですが、ここで演説することは、公共の福祉に反したものだと思います。この辺は、人通りもほとんどありません。ですから、明らかに、家の中の人に直接、演説をしているわけです。もし、あなたがあなたの意見をきちんと伝えたいのであれば、どこか場所を借りて・・・それは、確かにそんなに人が集まらないのかもしれませんが、そのようにした方が、ずっと、きちんとあなたの意見は伝わるんじゃないですか?」

ここで、のぼりを持って先導していた方が戻ってくる。
「君は、なぜ、演説の妨害をしているんだ」
「いえ、妨害しているんじゃなく・・・」
「妨害しているじゃないか。我々には、表現の自由というものがあるんだ」
「だからですね・・・」
「とにかく、ここは公道です。私たちは、きちんと法に従って活動しています。住民の方のご苦情がありましたら、やめますので」
「苦情があっても、99パーセントの人はそれを表に出さない。そういうところ、あなたもわかるでしょう。ですから、どこで何をやっていいか悪いかは、自分で判断して・・・」
「私たちは、きちんと法に従って行動しています」

ここで、話は終わった。
私は、駅へと向かった。背後で二人の話す声がする。『どうしますか』『とにかく、ここではなんだから、場所を移して・・・』
そのあと、一つ隣りの路地、マイクで大声で演説している声が聞こえていた。

彼らがなぜ同じ反論を繰り返していたかはわかる。つまり、私が明らかに反共産党的なイデオロギーの持ち主で、多分どこかの政治団体か思想団体かに属していると考えたのであろう。そうでなければ、わざわざ意見をぶつけてくるような酔狂な人はいないだろうから。でも、私はいかなる政治団体にも思想団体にも属していないし、殊更、反共産党的なイデオロギーの持ち主でもない。分類すれば、どちらかというと、右翼よりも限りなく左翼に近い。
ただ、彼らは、そのような意見には慣れていなかった。つまり、パターンの中にはなかったんだと思う。だから、ステレオタイプに、反共産党的な意見に対応する時の反論しかできなかったんだろう。
彼らも、その思想に触れた時には、もっと自分の頭でモノを考えることができたんじゃないかと思う。ただ、ある団体に所属すると、思考を停止してしまう。人の考え方に自分の思考を委ねていた方が楽だから。年配の人の方は、その思考停止がもっと進んでいた。彼は、私の意見を聞いてもいないのに、いきなり批判をぶつけてきた。その人にとって、上(組織上の上)の人が言うことには盲目的に従っておけばよく、対立する者は、皆、敵なのだろう。これは、実に楽な立場だ。その姿を見ていて、ふと、幕末の下級攘夷志士達のことを思い出した。上が命じるままに天誅を下す。同じようなものなのだろう。

人の意見に自分の思考を委ねてしまうのも、人の意見の暴力的な侵食に対して抗議をしない(演説に抗議をしない多数)のも、自分を相手に明け渡してしまうという点で、同じことなのかもしれない。「マゾる」のが好きな国民なので。
私は、人が自分を相手に明け渡そうが、そんなことは別にどうだっていい。ただし、あんまりみんながそればっかりをやっていると、極端に言えば、1945年8月15日以前の日本のような、みんながマゾって、とんでもないところまで追い込んでしまうということになりかねない。それは、困る。
だから、少し、ノイズを発したい。

「マゾるな!」