「なぜ人を殺してはいけないのか?」に答えて

「なぜ人を殺してはいけないのか?」というアンケートがあった。

アンケートに対して一言で答えれば、
『「人を殺してはいけない」というのはそれ自体が真である命題ではない。だから、その理由を問う「なぜ」という問い自体が間違っている』
ということなのだが、では、『なぜ、「人を殺してはいけない」ということが、真とならないか』ということに答えようと思う。
それは、「我々は、今、現に人を殺しており、そして、その位置を離れたら、人ではなくなるから」という答えになろうか。

私は家庭教師をしている。よく、複数の生徒から社会の中での矛盾に関しての憤りの言葉を聞く。概ね、子供たちは大人たちよりも正義感が強い。言葉を換えると、社会がより良きものであってほしいという理想の気持ちが強い。だから、子供たちが反社会的な行為を行う場合、その理由や発端は、自己利益からという大人の場合より、むしろ、踏みにじられた理想への怒りや大人社会の矛盾に対する抵抗の意味合いが強い。
それはさておき、その社会の中での矛盾に関しての憤りの言葉に対し、私がよく答えるのはこのようなことである。
『君は、もし、目の前で、自分の家族や友達、愛する人が殺されようとしていたり、危害を加えられようとしている時、その相手を殺したりすることがあるかもしれない。また、限られた食料しかない場合、他の人に渡さなくても自分の身近に人の分を確保するだろう。これ(何かを指さし)が君の身体として、まずこれを守り、次にその君に近いものから、守ろうとする。私は夏の甲子園の時に宮崎代表を応援しているし、オリンピックでは日本の選手を応援していることが多い。もし、何かがあったとき、関わった人で、自分と同じ故郷の人や同じ国の人がいた場合、その人に親しみを感じることもあるだろう。人間は、他がどうなろうとも、自分の生命や自分に近い人を大事にしたいという気持ちはある。理想として、世界中の人が豊かで平和にというのがあっても、実際、全ての人に対して、君が何かをできるというわけではない。例えば、君が今、美味しいディナーを家族と外でとっている時に、世界のどこかで、今、食べるものもなく飢え死にしつつある子供はいる。だが、君は、それをどうすることもできないし、また、それをその場で考える必要はない。その時は、君は、まずその家族との時を大事にすべきなんだ』
それに対して生徒は訊く。
『では、ボランティアとか社会奉仕活動というのは、あれは、変ですね。自分を偽っている活動でしょう』
それに対して私は答える。
『そんなことはない。素晴らしいことだと思う。人は、社会的動物なんだから、社会と切り離されて生きることはできない。もし自分たちが幸福であっても、社会が不幸に満ち満ちていたら、それは真の幸福ではないとも言える。もし、自分や家族が幸せであり、そして、その余力があるのであれば、そのような活動をすることは素晴らしいことだと思う。また、自分よりもまず他者のために活動している人はたくさんいる。そういうことができる人は、素晴らしいことだと思うし、自分でも見習いたいと思う。ただし、自分の家族や身近な人を顧みることなしに、他者のために活動している人もいる。それは、どこか歪に感じる。逃避なのかもしれないと思うね』

「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いを私が最初に見たのは、『筑紫哲也のニュース23』の放送の中でのことだった。特集で行われた、十代の若者達との討論。大人側の出席者は、筑紫哲也灰谷健次郎だった。その討論の中で、一人の若者から問いが発せられた。「なぜ人を殺してはいけないのか?」
それに対して、筑紫哲也灰谷健次郎は即答できなかった。意表をつかれたのだ。解答の内容ははっきりとは覚えていないが、「それは、当然のこと」「そのような問いがなされるようになった若者を育てた大人や社会の問題」という大体そのような答えだったと記憶している。そして、そのあと、十代の若者の殺人事件が続いた。私は、その殺人事件の遠因として、彼らがきちんと答えられなかったこともあると思う。あのような場で、若者の真摯な問いに対して曖昧な答えしかできなかったことの責任は、彼らのような立場にいる者においては、大きい。
私は、答える。「人を殺していけないわけではない。なぜなら、我々は、現に人を殺して生きている」と。

例えば、死刑制度がある。私は死刑廃止論者だが、その理由は「人は人を裁けない」からではない。裁けないのであれば、終身刑だって懲役3ヶ月だって同じことだ。人は現に人を裁いている。終身刑(日本ではないですね。無期懲役なので)だったら、その人を死ぬまで自分たちのいる社会から隔離してしまうわけだ。これは、人に対して裁く行為としてはすごく大きなものだ。私が死刑廃止論者なのは、「冤罪の可能性がゼロではない」ということがあるからだ。終身刑であっても、命があるのであれば、冤罪とわかれば償える余地もある。しかし、命は償えない。その一点だけ。だから、冤罪の可能性がゼロになるのであれば、私は死刑制度に賛成する。さて、その死刑制度は、「あなたが、人を殺す」制度である。「殺していない。殺すのは、死刑執行を行う人だ」と思う人もいるだろう。だが、もちろん、殺すのはあなたである。有権者であれば、今の国家制度を成り立たせているのは、あなた自信である。死刑執行には、法務大臣の署名が必要とされる。また、成り立たせているのは、刑法である。法律は、国民の選挙によって選ばれた代議員によって構成される国会以外で作られることはない。

警察官は拳銃を携帯している。この所持には、自分の身を守るためという理由もあるが、何より一般市民の身に何らかの危害が加えられようとしているとき、その行動を阻止するためという理由がある。拳銃の引き金を直接引くのは警官だが、間接的に引いているのはあなたである。私は、私や家族や友人や多くの善良なる一般市民を守るためにその引き金が引かれるのであれば、ためらわずにその引き金を引く。その時に、私は、人を殺している。そのことに、私は良心の呵責を感じないだろうと思う。

戦争は、今、その様相がかなり複雑であり、何を是とするかは、むずかしいものであろう。ただ、地域的ではなく、超国家的に危機をもたらすであろう集団に対しては、世界全体で、その組織を破壊することは必要だと思う。問題は、その時期にどの集団がそれに値するかということだ。少なくとも、1945年までのユダヤ民族にとって、ヒトラー政権とその追随者はそうであり、朝鮮民族にとって、日本はそうであった。私が、その頃、引き金に指がかかっていたら、ためらわずにその引き金を引く。現代においては状況も切迫しており、超国家的に危機をもたらすであろう集団は、BC兵器などの利用により、人類を滅亡に導くことも容易であろう。そうなると、「人を殺してはいけない」どころではなく、積極的に「人を殺す」ことが必要だと思われる。必要だと思わない人は、背中に銃を突きつけられているのにそれに気づいていないだけのことである。状況は、冷戦時代の微妙なパワーバランスの上で成り立っているのとは、意味合いが違う。

身近なところに話を転じて、例えば、あなたが、今、街中を歩いていて、呼びかけている街頭募金の集団を見かける。最近話題の詐欺集団ではなく、正規の手続きで登録された真っ当な募金活動である。「300円募金すれば、そのお金でポリオのワクチンが買え、子供一人の命が助かる」と呼びかけている。しかし、あなたは、募金はしない。連れがいて忙しいかもしれないし、持ち合わせがないかもしれないし、あっても余裕がないかもしれない。どういう理由があるにせよ、募金しないという選択肢を選んだ段階で、助かる可能性のあった子供一人の命が消えてゆく。その時、あなたは、一人の命を奪っている。

あなたが今、食べているエビの多くは東南アジアなどから輸入されている。そのエビの養殖池は元々水田だったところを養殖池へと転換したところが多い。長年続いていた生活の営みは変化し、その地の生態系にも大きな影響が現れている。しかし、その恩恵で、あなたは安いエビを食べることもでき、そして、もちろん輸出元の経済も潤している。ただ、生活や生態系の変化は、もちろんマイナスの面はあり、それは、誰かの命を奪っていることもあろう。例えば、日本は世界でも有数の木材輸入国だが、その日本の木材伐採によって、山が丸裸になり、それが元で山が降水を貯えることができなくなり、洪水が起こり、たくさんの犠牲者が出た地域があった。そこで亡くなった人を殺したのはあなたである。

以前読んだ「飢餓」という本で、アフリカなどの飢餓がどのように起こるかを数値的に分析していた。その地域の人口や生態系で安定が保たれていたアフリカにイギリスやフランスなどの帝国主義国家が現れて、その均衡を崩し、それが結果的に飢餓を生むというメカニズムをわかりやすく語っていた。本来、英仏がその地域に入り込まなければ、起こらない悲劇であった(具体的には、プランテーションなどの、食品作物でない単一作物の農業が気候の変動の影響をダイレクトに受け、それが地域の壊滅を生む)。世界の資源は限られており、その限られた資源の90パーセントを10パーセントの先進国が消費することで先進国は豊かな生活を享受し、開発途上国の特に貧しい国は貧困や飢餓にあえいでいる。いわば、先進国は、他の国の人の生命を奪いながら、生きている。先進国の人が食べている肉は、途上国の人の命である。

できるだけ、殺す人を減らすことはできる。そう・・・本来であったら死ぬであろうたくさんの人の命を救うこともできる。
しかし、我々は、自分や家族や、身近な人、愛する人の命を守り、安逸をむさぼり、生活を享受するために、たくさんの命を奪っている。いわば、我々は、人を食って、生きている。
人間は、他の動物と同じように、他の生命をもらって生きている。そして、もちろん、同じ種族の人間の命ももらって生きている。
ただ、人間が他の動物と違うのは、その作り出した社会が、我々の生きるということと不可分であり、ゆえに、社会を成り立たせるためなら、その中での他の個体の犠牲をも厭わないというそういうシステムにせざるをえなくなっている点であろう。また、このシステムは、そのネットワークが極めて広く、地球上全体の人間という全ての種族の関連の上に成り立っているという点も新たな問題を含むようになっている(この点は、のちにまた、詳述する)。
我々は、そういう社会的動物であるため、例え、自分や家族、仲間の生命が保障され、安逸に暮らしていけるとも、それだけで幸福に暮らすことはできない。自分たちの幸福が他の生命の犠牲の上に成り立っていることを知っているので。だからこそ、自分たちのできうる範囲で、その社会全体が同じように安全で幸福な生活ができるようにと行動もする。それは、「人を殺して生きている」という点となんら矛盾するものではない。また、自己利益で考えると、社会全体の不安は、いつかは自分たちをも脅かすことになるであろうことも知っているので、その点を踏まえた上での行動でもある。

「そもそも人間が生きてること自体が悪いことなんだ」と主張する人もいるが、この場合、善も悪もない。そういうものというだけである。もちろん、悪という概念は人が産み出したものであり、人間が生きていること自体に人間の産み出した概念を適用しようとすること自体が論理的に間違いである。また、論の展開として、悪と言うことにより全否定するのも間違いであり、しょせんそういうものと肯定するのも同様に間違っている。

人は人を殺して生きている。他の生物の命を奪って生きているのと同じように。それは、人は動物だからである。だが、同時に、人はそのこと自体を自覚した動物なので、そこから脱却しようとも考える。それは、人の進化のあり方だけど、だからと言って、「人を殺してはいけないのが当たり前」などと言って、今、現に、人を殺して生きているということ自体に目をつぶって語るのは、現実を見ずに理想だけを語るものとなってしまうだろう。特に、若い世代は、そういう自己矛盾には敏感なので、それにタイトに反応しているのだと思う。

「人の命を奪って生きている人間の存在をきちんと見据えた上で、より多くの人が安全に平和に幸福に自分の人生を全うできるような社会を構築できるかを考えるということが、必要なのではないか」

それが、私の答えである。