あえて、「なぜ人を殺してはいけないのか?」を考える

「なぜ人を殺してはいけないのか」
前述のように、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは、その問い自体が、「命題」とされている「人を殺してはいけない」に対して疑問を呈するという意味があると考えられる。刑事コロンボの問いと同じであろう。「私はね、一つわからないことがあるんだけど・・・なぜ、被害者はシャワーを浴びた後スポーツジムに戻ったのでしょうねぇ?」というのと、同じ。それ自体を再検証するという問いかけの「なぜ」である。
ただ、それに関しての答えは、既出。

『「人を殺してはいけない」というのはそれ自体が真である命題ではない。我々は、今、現に人を殺しており、そして、その位置を離れたら、人ではなくなる。ゆえに、人の命を奪って生きている人間の存在をきちんと見据えた上で、より多くの人が安全に平和に幸福に自分の人生を全うできるような社会を構築できるかを考えるということが、必要なのではないか』

では、その社会構築のために、限定した状況で、「なぜ人を殺してはいけないのか?」を考えてみる。
「今、目の前に、ある人がいる。その人は、自分や自分の親しい人の安全を著しく脅かす存在ではない。その人を殺すということは、なぜいけないのか?」

「人は、なぜ生きているのか」それは、哲学の根本的な問いである。そもそもこのような根本的な問いを自らに課すこと自体、他の動物と異なる特質であろう。いつか必ずやってくるであろう「死」を意識することから人の人としての歩みは始まる。宗教も哲学も子育ても、おおよそ人の行為の全ては、何らかの意味で、いつか自分が迎えるであろう「死」への一つの答えを自分の一生で導き出すその過程であるとも言える。
そう・・・人生とは、自らの、唯一無二の「死」への答えを見出すための、たゆまぬ歩みなのだ。この場合、「死」と「生」は表裏一体のものであるため、「死」を考えることは「生」を考えることにもなる。また、「死」を考えずに「生」を考えることはできない。光は影があるからこそ光なのだから。
故に、「人がその一生において自分の命をどう使うか」ということは、最大限に社会から保障されなければならない。人類の歴史における人権思想の発展は、詰まるところ、「人がその一生において自分の命をどう使うかを社会が保障する」ということであると、私は思う。ところが、人を殺す行為は、「その殺される人が自分の一生を全うし自分の命を使う権利」を奪う行為である。その権利を奪うことを社会が容認した場合、自分の権利も危うくなる危険がある。また、人を殺す行為は、「人は、なぜ生きているのか」に対してそれぞれの魂が生ある期間に解答する過程を途絶させる行為であり、「人」に対しての全否定の行為である。
故に、「人を殺してはいけない」

ただし、限定した状況に、「自分や自分の親しい人の安全を著しく脅かす」というのをつけた。この「著しく」というのが、問題で、これは個々の価値観や世界観によって違ってくる。

自分の信仰を否定されるということは、信仰を持っていない人にとっては大した問題でなくても、その人自身にとっては、安全を著しく脅かす問題である。イスラム原理主義において、欧米資本の中東への進出が問題視されるのは、信仰それ自体を揺るがす要素があるからである。故に急進的なイスラム原理主義者は、その自らの安全を脅かす存在を殺す。この信仰の問題はかなりやっかいなので、のちに詳述する。

私は、義務教育期間で、いじめられた人間がいじめた相手を殺すという行為を否定しない。なぜなら、義務教育期間において、「学校」とは「社会」それ自体であり、その中でのいじめ行為は、著しく自分の安全を脅かす行為に他ならないからである。ただし、「殺す」という前段階で、「学校だけが社会ではないということ」を認識させ、学校内で自分の安全自体が脅かされた場合にその状況から脱出できるシステムを社会が構築することは必要であり社会の義務であると思う。ただし、まだ社会と自分との距離を把握する発展過程の学齢期(特に義務教育期間)においては、子供が自分自身で「学校」を全社会ではないと認知する力は弱く、故に、「自分の安全が著しく脅かされた」と感じ、その存在を除去しようと考えることは当然起きうることで、その場合に、その行われた行為を否定することは、むずかしいと、私は思う。
ちなみに、それは、子供の場合である。例えば、以前、幼稚園である母親が他人の子供を殺した事件があった。この事件では、その母親が他の母親から村八分的にされていたと思ったようである。彼女にしてみれば、まさに「いじめ」と同じであったろう。ただし、大人は、自立しているのであれば、その今ある環境を捨て去ることも可能である。「いじめ」があれば、その環境から他の環境へと移ることも可能である。もし、それを可能でないと自分で思いこんでいるのであれば、それは、その人自身が自立していないということであり、その未熟さ故に他者の生命を奪った場合、それは厳しく処断されるべきであろう。

では、人の命はさておき自分の命はどうであろうか。つまり、「なぜ、自殺をしてはいけないのか?」という問い。それに対して、私の意見は、「自殺はしてもいい」である。
理由は、『「人がその一生において自分の命をどう使うか」ということは、最大限に社会から保障されなければならない権利だから、その人が自分の命を絶つということに対して、社会がとやかく言うことはできない』と私は思うからである。もちろん、個々の自殺に対して、「何も自殺しなくてもいいのに」と思うことは多い。だからと言って、では、その自殺をした彼の行為が悪いことであるとか否定されることであるとは思わない。その人が自分の人生をどう使うかは、その人自身の問題で、他人がとやかく言えることではないことなので。
ただ、ここで補足。私は、自分の親しい人、誰にも自殺はしてほしくない。私は、あなたを必要としている。親しい人の死によって、私の中での何かも確実に死んでいくのである。自分本位の考え方だが、できれば、全ての人、それぞれが豊かな人生を歩み、そして人生を全うして欲しいと強く思う。

話が逸れたが、「できうる限り、人は、人を殺してはいけない」
「使命」という言葉があるが、その言葉どおり、我々は何らかの使命を帯びて、この世に生まれてきた。どう「命」を「使う」かは、それぞれの魂の問題である。人を殺すことは、他者の使うことのできる命を奪うこと。それは、自らを否定することにもつながると私は思う。