蹴られた空き缶

東京都港区の公共住宅のエレベーターで高校2年生の男性が挟まれ死亡した事故の住民説明会で、住民から区の方に、非難の声があがっている。明らかに区の失態であり、また早急に対応せねばならない状況であり、住民の非難の声は当然のことであろう。
しかし、2年半で19件あったというトラブルの内容を聞いていると、いささか疑問を感じざるをえない。それは、「住民たち自身が高校生を死に追いやったということへの反省はないのだろうか?」ということに関してである。

トラブルは深刻なものである。ドアが開かず住人が閉じ込められたり、途中停止や振動、異常音などの故障やトラブルが相次いでいたようである。問題は、それらの事故に対して、「自分が迷惑を受けた」「次に自分が使うときに困る」という意識はあっても、「他の人が迷惑を受けるかもしれない」「それは、深刻な事故につながるかもしれない」という意識がどれほどあったのであろうか?

エレベーターである。小さな子どもが単独で頻繁に使用するものでもある。
「誰かがやってくれる」と思っていたであろう。苦情や保守の要望は出ていたようである。しかし、何か深刻なことになる前に積極的に何かをする(例えば、『危険ですので使用できません』の貼り紙をする。もちろん、それはむしろ迷惑行為として受け止められることとなりかねないことなのだが、事態はそれほど深刻であるというアピールにはなる)というところまで、本来、動くべき事ではなかったのか。

電車の中で、よく見かける光景として、転がっている空き缶のサッカーボール状態がある。電車の揺れによって、空き缶はあっちに転がりこっちに転がりし、座っている人の足にぶつかる。ぶつかった人は迷惑そうに、避けたり蹴ったりするが、それを拾ってキープしておき、自分が降りる時に捨てようとすることはしない。自分が迷惑だと思っていても、自分の所から離れたら、あずかり知らぬこととする。でも、自分から離れて転がっていった空き缶は、誰かの足にぶつかるものとなるのだ。

死んだ高校生の家族も、おそらく、エレベーターの不具合を知っていたであろう。しかし、事故の後から出てくる、過去に住民たちが遭遇していた明らかに重大なトラブルの数々をニュースなどで聞いたときに、どのような思いを持ったであろう。それは、口に出せない思いである。

「管理会社が適切に対応するべきだった」「区が責任を取るべきだ」「メーカーに問題がある」というのはもちろんなのだが、実は、事件に至るまでに、「誰かがなんとかしてくれるであろう」という他人まかせの気持ちがあったことによって起こった悲劇であったのではないかということも、考えていいのではないかと思う。のちのちへの教訓として。