『朝ズバッ!』の謝罪に関して

行き過ぎたコメントと捏造映像で不二家から抗議を受けていた『朝ズバッ!』の18日放送で、番組が謝罪の上、みのもんたが「不二家の再生を、私たちは応援しますよ。スタジオで出すお菓子も全部不二家にしちゃう」とコメントしていた。『自らに非があったら謝罪する』、それは当たり前のことである。しかし、特定企業を応援するのは、報道の側が行うことではない。たとえ、それが、特別、社会に益がある行動を取ったということに対してでも、報道は、それをより深く情報を取り上げるということでしかバックアップすることはできない。応援などは、論外である。まして、抗議を受け、一転応援に転じるとしたら、それはもう『報道』ではない。

今回のようなことがあった場合、報道が語るべき言葉は、謝罪の上で、「しかし、我々は、一度問題を起こした企業の営業再開であるからこそ、そのチェックを厳しくし、今回の営業再開が本当に企業の再生であるかどうかを検証していきます。それこそが、報道のあるべき姿だと思います」というような内容であろう。

以前、テレビ朝日ニュースステーションにおいて、大腸菌O157とかいわれ大根との関連が取り上げられたとき、風評被害が問題となった。この時、番組において、データの取り上げ方に問題があったことを謝罪したが、報道したこと自体は謝罪せず、また殊更手のひらを返すようなコメントも出さなかった。私は、その姿勢は正しいと思った。

(ちなみに、同問題では、風評被害を受けたかいわれ大根農家を被害者として報じるマスコミも多かったが、元々、それら農家も加入していたであろう農業協同組合が情報を隠蔽したことから始まった話であり、農家の側は、被害者ではなくやはり加害者である。そういう意味で、ニュースステーションの報道は、手法に問題があったとはいえ、報道としては真っ当な姿勢であった)

今週、もう一件、報道の姿勢に関する話題があった。宮崎県東国原知事の『定例記者会見は必要なのか?』という問いかけの報道である。この時、記者側は、「必要です」「稚拙な質問」というようなコメントは出せても、なぜ必要なのかということをきちんと語ることができなかった。必要なのかと問われれば、もちろん必要である。知事は、「定例記者会見って必要ですかね。特筆すべき発表がない時は会見を開かなくてもいいのではないか」と言っていたが、記者が反駁すべきところは、ここであったであろう。『記者会見』は『報告会』ではない。上意下達するだけの場でなく、記者が問い質す場である。知事の「必要かどうかは県民に聞いてみます」という言葉に対して、「県民を代表してあなたの言葉を聞くのが、私たちの使命です。私たちは、有権者である県民の代わりにあなたの政策を検証する、そのための場としてここがあるのです」と語るべきであった。まあ、語れないとしたら、それなりの内容しか報道してこなかったということなのかもしれないが。

報道は、政治家に対して、おもねる必要も、必要以上の敬語を使う必要もない。よく、記者が政治家に対して「ご足労いただきましてありがとうございます」のような低姿勢のコメントを発することが多いが、報道は、主権者である国民の側にいるものであり、その立場で粛々とした態度、毅然とした態度で取材活動を行えばいいだけである。政治家は、国民の選挙で選ばれたものであるが、報道は、より普遍的客観的視点で主権者の知る権利を代行する役目のため、より主権者に近く、よって、政治家よりも上位者である。

上位者であるからこそ、自分を律することもできる。今の記者、報道には、上位者という意識はあるのだろうか?