時津風部屋で力士暴行死。隠蔽工作と見られる火葬準備事件

今回の事件で、不思議に思うことがある。
被害者にたいするリンチと死に関しては皆がそれに対して犯罪と見なし、また憤りを感じていても、「三度の脱走」とそれを連れ戻したということに関しては、これを問題視していないということである。
場所は監獄でも留置所でもない。相撲部屋である。その場を自発的意志で離れるその意志を認めず連れ戻すという行為に対して、なぜそれが犯罪と見なされないのであろうか。

「でも、会社で無断欠勤したらそれは許されないだろう」という意見もあろうが、もちろんそれは、許される。会社としては、ただ、解雇すればいいだけである。もっとも、会社の方に非があるとしたら、そのこと自体が問題となることであるが。
また、「まだ未成年の子供を預かっている相撲部屋は家庭や学校のような場所である。その場所から、無断で出ていくことはできない」という意見もあろう。しかし、家庭であろうともその場所が個人の権利を侵害する場所である場合、そこから逃げ出す行為は保障されている。また、義務教育における学校は「教育を受けさせる義務」という日本人の三大義務の一つにより家庭から子供を預かっている場所であるが、相撲部屋に入門する弟子達は義務教育年齢も過ぎているし、なにより相撲部屋は教育機関ではない。
法的に認められた公的機関以外は何人も拘束できない「身体の自由」という考え方は、自由権の中で、精神の自由と並び尊ぶべきものであると考える。しかし、朝青龍の謹慎処分の時と同様、身体の自由という基本的人権に関しての認識が、皆、あまりに乏しいのではないだろうか。

こういう意見に対して、「伝統というのは、日本人が長い間守ってきたものであり、欧米的な思想である人権というものをそのまま適応するというのはおかしい」という考え方がある。
私はそれらの意見に対して、ただ、「勉強しろ」と答えたい。

美しい国」などと戯言を言ってた果てに政権を投げ出した前総理と同様、勉強不足なのである。
基本的人権というのは、人類が幾多の犠牲を払いながら勝ち取った権利である。日本人は、それを六十年ほど前にいっぺんにプレゼントのようにもらったわけで、自ら戦い取ったという経験に乏しいため、そのありがたみがわかりにくいであろうが、そのありがたみは、歴史を学べばよくわかるはずのものである。戦前の日本がどのような国であったのかをよく知らないから(もしくは自分にとって都合のいいところだけを学んでいるから)戦前の方がよかったなどと平気で言えるのである。断言しよう。日本が、占領下においてもたらされた諸制度のその99パーセントは良きものであった。変革によって新たにもたらされたマイナス面は、良い方向に振れたプラス面によってほとんどかき消されるぐらい、そのプラス面は大きかったと言える。そう思えない人は、単に勉強不足なだけであるだけである。勉強不足は別に悪いことではない。これから勉強すればいいだけのことなのだから。まあ、そんな勉強不足の人が一国の総理までなるとなると、それは、悪しきこととまで言えるであろうが。

話が逸れた。相撲のことである。
もちろん、私は、欧米的な近代合理主義で割り切れない諸要素がいかに大きな意味を持っているかということもよく知っている。それどころか、そちらの方にこそ真実があるとさえ思っている。東洋における目に見えないもの、精神に重きを置く思想、無意識に関する意識、「無」の思想など、多くの思想はデカルト以降の近代思想史の先駆を行くものであり、また、西洋哲学が二十世紀にやっと辿り着いた思想に、すでに十数世紀も前から到達していた思想とも言える。

しかし、私は、人権思想というものは、この社会に偶然生まれ落ちた個々人が共に生きその人生を全うしていく上で社会体制というものがどういうものであればよいかという点において、極めて完成された思想であると考える。例え、その母体である社会が地域や文化によってどのように差異があろうとも、人権思想を共通認識として大事にしていくことができれば、人類は次の段階まで進むことができるかもしれない。

もし、人権思想とその地域の文化に齟齬があるのであれば、私はそのような文化、伝統は捨ててもいいと考える。

相撲が、その体制において、基本的人権を著しく侵害するものであれば、そのような伝統はいらない。未来につなげていく必要はない。
現状において、外国人力士は、騙されて連れてこられその基本的人権が著しく侵害されている状況に置かれている被害者が全てと言ってよい。

もちろん、人権が侵害されている状況を事前に認識した上で望んでそのような立場に自分を置こうとする人がいるとすれば、それもその人の当然の権利であろうが、しかし、その立場から去ろうとする人が速やかに去れるという状況は保障されなければならない。現状において新弟子として新たに相撲界に入ろうとする人は、そのほとんどが未成年かあるいは外国人である。その場合、その組織が基本的人権を侵害するような場所であったとしても、その場所から脱するのは容易なことではない。

私は、相撲界は、伝統を全く捨てて新たな形へと再編成するか、あるいは、なくすべきであると考える。その組織において、基本的人権が侵害されるのであれば、私は、そんな伝統なんて何もしがみつく必要はないと考える。悪しき伝統など捨ててしまえばいいことである。いらないのだ。