教師のライトスタッフ

NHKの世界遺産100を観ていたら、イフガオ族(フィリピン)の棚田を取り上げていた。田んぼであるので、稲作風景。収穫されたもみを叩いて脱穀、そして、風で籾殻を飛ばす。日本でもかつてそうであった脱穀の風景である。

で、ふと気になったのが、先日生徒から聞いた学校での稲作の話である。昔からそうであるが、学校でお米作りを学習していることは多い。その学校でもお米を作っているが、誰も水をあげないので自分があげているという話をしていた。まあ、それはよい。当番など、皆、いやがるものだろうから。それはさておき、そのお米の籾殻を取るのが大変だと言っている。話を聞くと、手で剥いているとのこと。それは、大変だろうと思った。
無駄な手間をすることが昔の人の苦労を学ぶと言うことではあるまい。農業技術の進歩は、いかに楽ができるか、無駄なことをしないですむかの試行錯誤の積み重ねである。脱穀にあたっては、そのように現在も世界各地で行われている脱穀方法を使ってもいいし、また、江戸時代の脱穀の変化、例えば、風で飛ばす方法から、唐箕まで使っていってもいい。少なくとも手で一つ一つ剥くのに意味があるとは思えない。

この教師は、学校のテストで「スペシャル問題」と称して、「サザエさんのお父さんの年齢は?」とか「昨日の日韓戦のスコアは?」というようなことを平気でやっている。その時だけの他愛ない雑談であれば戯れ言ですむが、それを覚えるように指示している時もあるので、戯れ言ではすまない。稲作の話とあわせると、この教師に教師としての資質があるのか疑問が湧き起こってくる。

そもそも、「学校の先生にどれほど教師としての資質を持っている人がいるのだろうか?」

これも先日聞いた話だが、ある私立中学校では1年生から漢文を教えている。それ自体は問題ではない。少し、早かろうが、手順に従って学ぶ分には、漢文は日本語を学ぶ上で大きな武器となろう。問題は、その1年生が、古文はまだ学んでいないということである。漢文は、その読み下し文には古文を使う。古文の素養がある程度ないと、どの部分を仮名に開くかの判断もつかない。そもそも、意味が正しくつかめない。想像するに、この教師は、漢文系が専門なのであろう。だから、漢文をこの時期に導入するのであろうが、それは、あってはならない手順である。このように、何をどのレベルで学習するかとか、どの順番で学習するかとかに関して、教師の単なる趣味や無自覚で選択されることが多い。戦国時代が好きな社会の先生は細かい合戦までを一つ一つ事細かに解説し、生物が専門の先生は、小学生に消化酵素名を全部覚えさせる。それは、学習内容をふくらませるというよりもむしろ、単なる教師の趣味であることが多い。

これは最近の話ではない。昔から教師は、教師でなかった。

教師の資質がないもの、もしくは、教師であろうとする努力をしていないものが教師をやっているという状況は、昔も今も同じなのであろう。ただ、違うのは、昔はそのような教師でも、生徒がついてくる社会的な環境があった。しかし、今はない。それだけのことである。

今、学校の状況は最悪である。この状況に対して教師が外部から攻められるのは酷な話であると思う。今、いい教師であろうが悪い教師であろうが、どうしようもない絶望的な状況に学校はある。ただ、そのような状況は、「教師としての資質がない人がほとんどの集団で教師をやってきた」というその組織、学校に起因することでもある。だから、教師は、内側では同じ教師を攻めるべきなのである。

「お前は、教師でない」と。

ニセ教師ばかりの今の学校で、状況が改善するはずがない。