「ブレードランナー」のボックスが届いた

DVDの時代になって何年になるだろう。やっと、「ブレードランナー」のDVDが、出た。
って、もう出てるだろうと言われるだろうが、自分にとっての「ブレードランナー」は最初に観た劇場版(ナレーションが付いて、最後に緑の遠景が入っているもの)こそが真の「ブレードランナー」なので、最終版やファイナルカットは、論外であった。自分にとっては偽物といってもいい。

今回のボックスは「『ブレードランナー』製作25周年記念アルティメット・コレクターズ・エディション(5枚組)」というもので、オリジナル劇場版に加えて、インターナショナル劇場版、ディレクタ^ズカット完全版、ワークプリント、そして、ファイナルカットという5つの違ったバージョンが入っている。正直、オリジナル以外は余計で、オリジナルだけが出いていたら、それだけを買っていた。自分には、違ったバージョンがあったら全部おさえておこうなんていうような趣味は全くないし、どちらかというと、そういうのは好きではない。それにしても、1作の映画のために定価14800円は高いと思う。

映画というのは、他の物語のある創作物と同様、連続した時間のある断片を切り取って見せる表現形態である。見えるのは、全てではない。一部である。そして、我々は、その断片以外のところを、頭の中で補完することによって、その作品を完成させる。つまり、作品とは、「描かなかった部分を、鑑賞者とともに創り上げることによって、初めて完成するもの」と言える。
どの作品であろうと、一度、この世に発表されたからには、もうその人の作品ではない。送り手である創作者と受け手である鑑賞者の頭の中のイメージが組み合わさった集合体である。それを、創作者が自分だけの作品として改編しようとする行為は、実は、許されたいことだと、私は思う。

同様な理由によって、私は、バッドマンやエクソシスト、007などの作品の、最近はやりの「ビギン」というのが、好きではない。私に、言わせれば、それは、「偽物」である。本物は、オリジナルを見た私の頭の中にある。もちろん、どれでも、過去に戻ってはいけないと思っているわけではないが、過去に戻るという行為は、第一作として発表された作品によって作られた、鑑賞者の頭の中でのイメージを壊すかもしれないという恐れは抱いて作られるべきだと思う。

続編ラッシュは、論外である。ハリウッドは続編ラッシュによって、もはや、死に体である。