ニューヨークの外食チェーン店でカロリー表示義務づけ

米国ニューヨークの外食チェーン店(15店舗以上)で、メニューにカロリー表示することを義務づけることが決定されたそうである。一応、外食産業組合は不服として提訴しているそうだが、どうやら、義務化は避けられない様子。

前から、妙な話だと思っていた。
あれだけ、個々人の健康に関してやかましく、フィットネス器具はあふれ、ジョギングや何かしらの運動をしているのが当たり前のように思われている国で、食事に関してのカロリーコントロールの意識が低いということに。私は、体験していないことなのだが、あちらでの食事の量の尋常じゃないことに関しては、周知のことである。おそらく、一食で、一般成人が一日に摂取するのに必要なカロリーを超えているに違いない。あきらかにオーバーカロリーを摂取しながら、同時に、必死にそれによって増えた余分な部分を減らそうと努力する。これはもう、過食症の人が多量に摂食しそのあと吐くようなものである。国全体が、食産業と健康器具産業と製薬会社と病院、医師を潤わせるために、つるんでいるとしか思えないところがある。多量に食を与え、太らせ、健康を害したものも健康を害しないように食い止めようとするものも、どちらからもさらに金を落とさせる。素晴らしい、システムである。ゆりかごから墓場まで一貫した集金システム。見事なものだ。

で、それはさておき、義務化というのは、これまた馬鹿げた話である。
義務化しようがしまいが、要するに、利用者がカロリー表示をしていないような外食店にはいかなければいいだけの話である。利用者には、自分の身体を健康にしようがしまいが、自分で判断する自由と責任がある。もちろん、国の厚生に対する責任はある(国民全体の健康状態が著しく悪くなれば、国全体が立ちゆかなくなる)が、それは、個人個人の自己責任のところまで踏み込んではいけないし、踏み込む必要もない。
「立ち入り危険」のところに立ち入った人が危険な目にあった時に、人道上の慈悲以上のところまで国は責任を持つ必要はない。危ないと注意勧告された中州に取り残されて、助けも拒否しているような人たちは、そのまま放っておいて、あとは、死体を回収するだけでいいのである。
話が逸れた。

私は、米国という国が非常に好きである。いろいろと問題点はたくさんあるし、矛盾点も多いが、基本的にあの国の、理想主義は気に入っている。日本は、あの国に、多くのものをもらってきた。現代の日本の、母親はこの国土及び文化それ自体だとしても、父親は米国であろうと思う。
ただ、その米国・・・というか米国民であるが、自由、民主主義を高らかに謳いながら、どうも、責任をすぐに上部へと転嫁する傾向がある。これは、そもそも、自分たちが、この社会自体を自分たちで作っているんだという意識が強いから、その作っているものがきちんと責任を果たしていないということに関して糾弾するという意味があり、これは非常に民主主義の意識が進んでいるからとも言えるのだが、同時に、その自分たちが作った組織に対して、盲従となり、いざというときに、自分が果たさなければいけない個々の判断や責任、そして自由をも、その作り出した組織に委ねてしまうという危険性を持っている。
日本人の場合、逆に、そもそも社会自体を自分たちが作っているという意識や社会を自分たちの手で変えられるという意識が弱いため、何か個々のところで問題が起こったとき、それを、上部の問題というよりもむしろ個人やせいぜいそのまわりの共同体ぐらいの問題であると考える。これは、ある意味、自分たちで何とかしなければいけないという強さにもつながるし、逆に、社会自体を変えていくことによって状況を変化させられるという意識がなく大きく全体を変化させられないという弱さにもつながる。
あちらが立てばこちらが立たずの話なのだが、こと、今回の、カロリー表示の義務化に関しては、義務化させられないと自分のカロリーもコントロールできないという風に動く社会と、カロリー表示の義務化はされていないがカロリー表示に敏感で、カロリーコントロールしている人は、意識的に表示されている店や食品を選ぶという社会を比べると、明らかに後者の方が、民度が高い。

米国民は、自分たちの判断をどれぐらい自己責任で行っていくかというその範囲を、もっと広げていくべきであろうし、また、自分たちが社会体制を積極的に作り出しているからといって、その作り上げたものに全ての責任を委ね義務を課することが、いかに、自分たちの判断能力や自由を奪うかに対し、もっと危うさを感じていくべきであろう。

そして、日本人は、それを別な意味で意識すべきである。自分たちで社会を作っているとか変えていけるとか意識をしていない国民が、社会の責任をばかりを追及していったとしたら、それは、米国の危うさの比ではない。