『美味しんぼ』の山岡士郎と海原雄山が歴史的和解・・・これが和解と言えるのだろうか?

美味しんぼ」の連載が一区切りした。
本来、第一子の誕生かその前の山岡の結婚の段階で和解しておくべき連載であったと思うが、ここまでずるずる引きずった以上、どのように一区切りつけるかということには、注目していた。
結果は、大失敗であった。
今回の究極のメニューと至高のメニューの対決は、朝食・昼食・晩餐において、「相手を喜ばせる」というテーマであったのだが、このテーマの置き方はよかったと思う。お互いが相手のことを考えるということが、喜ばせるということなのだから。

しかし、いざ対決が始まってみると、これが期待と外れていた。それぞれがお互いの自己主張をするのみなのである。

雄山は、「自分がどのような思いで美食倶楽部を行ってきたか。妻(山岡の母)がいかに自分を支えてきたか」というのを主張するばかりであるし、また、山岡は、「自分がいかに家族の団らんを求めてきたか」というのを、これもまた料理において主張するばかりである。唯一、山岡士郎の妻のゆう子が、実は海原家は一家団らんの時間はあったのであるということを示すために磯の小ガニの唐揚げのエピソードを示すというシーンもあるが、それすらも、お互いの溝を埋めるものではない。お互いが、相手の立場に立って考えるのではなく、自分たちがどのような思いであったかをただ主張しあう。これが、「相手を喜ばせる」ということになるのであろうか。

確かに、「相手を喜ばせる」ということは、相手に合わせるということだけではない。自己主張をして、相手に自分のことをわかってもらうことによって相手を喜ばせるということもあろう。しかし、そもそも、今回の対決は、お互いの感情的なわだかまりを解消するという裏の目的もあり、実施されたものである。そのためには、自己主張だけではなく、相手の気持ちをおもんばかるということが必要なのだが、双方にそれが欠落している。本来、海原雄山が究極のメニューで目指していたものを山岡が提示し、山岡士郎が雄山の元で味わえなかったと思っていた一家団らんの形を海原雄山が示すべきであった。逆なのである。「相手をもてなす」とは、自己主張ではなく、相手が望む形を模索するということなのだから。
しかし、そうではなかった。お互いの自己主張で終始した。和解の場としては、大失敗である。ところが、それが「和解」として語られ、また、お互いの溝がある程度埋まったことが示される。ここで、読者は置いてきぼりになる。
「えっ、どこで和解したの?」と。

美味しんぼ」はある時期から、漫画としてそのレベルを大きく落としていた。最近ではない。おそらく、コミックで巻数が二桁になったあたりから、もうすでに、作品の完成度が落ちてきていた。それは、「キャラクターの心情が描けなくなった」ということである。
それが、何によって生まれたのかわからない。とにかく、初期から、物語の中で語られる情報と登場人物それぞれの感情がうまく結び合わなくなってきていた。絵がワンパターンになり、漫画としての魅力を失うというのはこのような長期連載にはよくあることだが、この作品の場合、それでも、語られる情報や原作者の訴えかけるメッセージ性の強さで、ここまで一定の人気を保ち続けていた。終わるべき時期を逸した作品がきちんと終わるのはむずかしいことだが、今回の「和解」をうまく描くことができれば、終わりよければすべて良しで、有終の美を飾ることができたであろうが、結果的にそうはならなかった。原作者は、前から一区切りをつけたいと訴えていたようであるので、今回の責任は何より編集側にある。

落としどころはあった。究極と至高の対決では自己主張に終始しても、そのあとのフォロでなんとでもなる。一番よい終わらせ方は、「海原雄山山岡士郎を差しで話させる」ということであった。第三者が間にはいるとこじれることでも、二人きりだとうまくいくというのは、よくある話である。雄山と士郎の場合、その親子げんかが常に第三者が絡んだ場において行われているということにより、話がややっこしくなっている。これを和解まで持っていく定番の方法は、「二人きりにする」ということだったのだが、なぜ、その方法を取らなかったのだろうか。原作者が入れ込んでいて思いつかなかったとしても、なぜ、編集でフォロできなかったのであろうか。

対決のあと、雄山が、「このワインが飲み頃になったら飲もう」とワイン(Petrusの12年物)を贈る。もう飲み頃だよ団さんに促され、ゆう子に引きずられるように山岡は遊山の元に。ここもひどい。

飲み頃を決めるのも、実際、雄山の元に向かうのも、山岡1人の決断にすべきであった。

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皆が固唾をのみ見守る中、山岡が立ち上がり、
ゆう子「あなた・・・」
山岡「Petrusの12年物は、もう飲み頃だ」
と、1人、海原の元に向かい、亡き母(妻)の遺影を前に、親子水入らず、二人で飲む。

このような最終回を見たかった。

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秋に再開で、今後は「日本全県味巡り」を描いていくそうだが、本来、この連載は、もっと早くに和解を描き、その上で、トピックごとに不定期連載の形を取るべきであった。原作の雁屋さんが何かに関して語りたいと思ったときに、それを元に集中連載の形を取るのが、理想的な形だったと思う。例えば、今年のように食の問題がいろいろ出てきているような時には、まさにそれに関して存分に語って欲しいと思うのである。連載が続いていると、ニュースに対して即応しにくい面もある。短期集中連載が、再開後の理想的な掲載の仕方だと思うのだが、いかがであろうか?

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