自民党が、夏季に時計の針を1時間進めるサマータイム(夏時間)制度を導入するため、議員立法で国会に法案提出する方針を決めた。

また出てきてしまったサマータイム導入の話。サミットとの絡みで、今回は本当にやるつもりのようである。
私は何度も出ては消えしているこのサマータイムの話題が最初に出てきた時から、終始一貫、反対である。
理由は一つだけ。お上に、こちらの時間を左右されたくないということだけである。
もちろん、時間というものは、その国の標準時にあわせて決められているものである。しかし、我々は、生まれ落ちてからこれまで、その標準時に左右された24時間のサイクルで動くように身体のリズムができあがっている。もっとも、実は自転周期のズレで本当は25時間であるという話もあるが、それはまあさておき、時差ボケなんて言葉も、ある地域での24時間周期に慣れたものが他の地域のずれたサイクルの環境に人為的に変わることにより、そのズレになかなか対処できないということである。それを、わざわざ制度として作ってどうするということである。
もちろん、我々の歴史は常に、修正の歴史である。
明治初期に、太陰太陽暦から太陽暦に代わり、通貨が代わり、四月が年度初めに変わり、戦後、横文字の右から左が左から右に変わり(どうも戦前も混在していたようだが)、尺貫法がメートル法に代わり、仮名遣いが、「けふ」「おもふ」などが「きょう」「おもう」などと変わっていった。変わっていくことに違和感を感じた人は、今でも、尺貫法を使い、旧仮名遣いを使っている。気持ちはわかる。自分でも、同じような状況だったら、そうだと思う。
幸い、自分がこれまで生きていた時代の中では、そのような劇的な変化は起こっていない。だから、この気持ちの中には、理論的というよりも極めて感情的な意識が強い。要するに、「自分の生きている間には、自分の慣れ親しんだシステムを恣意的に変えられたくはない」ということである。自然に変わるのであれば、しょうがない。技術の進歩で変わるのも、しょうがない。ものによっては、むしろ歓迎である。しかし、人為的に変えられるのであれば、声を大にして反対したいし、また、それを理論武装したくもなる。
自分たち・・・というのは、今、生きている大多数の人も同様であろうが、今の非サマータイムの時間制度に慣れている。つまり、固定した標準時というものを自分の体内時計として、それと季節がずれてきたことによって、夏の訪れを感じたり、冬が間近になることを感じるような、そういうサイクルになってきているのだ。
「まだ、5時なのに、もう暗くなってきたよ」という言葉で、季節が秋から冬へと変わりつつあるのを感じ、出勤時にすでに明るいということに、夏を感じる。我々は、固定した時間とのズレで季節感を感じる人生を歩んできたわけであり、お上が時間をずらしたことにより、季節感を感じてきたわけではない。そもそも、サマータイムはシステムからして、ある日にちを境に、1日で変わる。非常にデジタルなものである。このデジタルさは、日本人の季節感とも大きくずれるものである。次第にずれていく時の移ろいを感じてこその、季節感ではなかったのか。
もちろん、これには異論もあろう。大体、日本は、不定時制をやってきたのであり、日の出日の入りを明け六つ暮れ六つと定め、そこから数える、まさに完全なるサマータイムをやってきた。1時間の長さ自体が変動するのである。だから、サマータイムも歴史的伝統に戻るのだという考え方もあろう。それであれば、本当にそれでやればいい。1時間の長さ自体を変動させ、完全に地球の公転と日の出日の入りのずれに連動させるのである。・・・無理であろう。今の地球上で、それは不可能な話である。そして、我々は・・・というか、百年以上前の祖先は、渋々ながらも、定時制に変え、そして、それに慣れ、そして、我々の現代の文化がある。もちろん、自分も含めて、完全定時制の社会と、その季節とのずれに慣れてきている。それを、また、ずらすというのを、第三者に押しつけられるという、このことが耐えられないのだ。
サマータイムの推進論として、欧米先進国がすでに導入しているという話があるが、一つの国家の中で複数の標準時を使用していたり、国境が隣接している中での移動が多い国家での時間概念と、日本の場合は、事情が違うのである。

いろいろ論じていても、実は感情論である。つまるところ、時間などという自分の生活リズムの根幹に関わるようなところを、国家によって恣意的に変えられたくはないということだ。

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