虚無の時代を生きるために・・・秋葉原で通り魔殺人事件・7人死亡10人重軽傷

二日前に、秋葉原の同じ場所にいた。
日曜日のホコ天で、同じ交差点を横切っていたことも数多くある。
被害者が自分だった可能性も当然あった。

このニュースに関しては、各メディアとも、通り一辺倒の報道しかしていない。それはそうだろう。何を語ればいいというのだ。通り魔による無差別殺人を回避する手だてはない。誰の責任でもない。強いて言えば、社会全体の何かに帰するしかないのだ。
で、ニュースを観ながらいろいろ考えた。

この犯人の行為は、道連れによる自殺である。以前の茨城荒川沖駅での8人殺傷事もそうだし、池田小での児童殺傷事件もそう。また、今年問題となっている硫化水素自殺も、他の犠牲者が出る可能性を斟酌しないという点では同様なものなのかもしれない。このような自殺を抑止する手立てが果たしてあるものだろうか。

死者は殺せない。

極刑が死刑であるのは、それ以上重い刑が考えられない(もちろん、殺さないで延々苦しめる刑などは過去存在するが)からである。しかし、一度死んだ者に対しては、この社会は何も手出しができない。そのために、西洋においても東洋においても、その宗教体系の中で考案されたものが「地獄」というイメージである。この「地獄」のイメージは、社会が生者に対して死してもなお苦しみが続くということを信じ込ませるための呪いであり、その呪いは、社会を安定させるために大きな効果を歴史上持っていた。もちろん同時に、この呪いは、その社会の安定と秩序を必要とした時の権力階層にとっても、重要なことであったのだが。

しかし、今、この呪いは通用しない。
現世において行った行為で死後地獄に堕ちるというイメージは、天国と同様、今やその効力をほとんど失ってしまっている。キリスト教文化の社会においても、それは同様であろう。例えば、日本でも大ヒットを続けている「千の風になって」の原詩『Do not stand at my grave and weep』は、2004年9月25日に98歳で逝去したアメリカ人女性メアリー・フライの作品であるとされているが、この歌詞を読むと、むしろ、死者が自然の一部となって身近な存在として生者を見守るという存在として認識されており、東洋の死生観とも近いところがある。

底流にある現代人の死生観は、一言で言えば、「虚無」である。死のあとには、何もない。ただ、「無」が存在する。「千の風になって」の歌詞が生者のためのものであることを、我々は知っている。そう思いたいと思っているのだ。願いとしてならば、天国や地獄やキリストによる復活という抽象的なイメージよりも自然の一部としていつまでもそこにあるという考え方の方が、はるかに、なじみやすいのであろう。しかし、我々は知っている。死者は、どこにも行かないことを。

さて、そうなると、一体何が、抑止力として働くのであろう。
現世を否定し、ただそこから逃れたいと思っている者が道連れに他の者を巻き込みたいと考えた場合。

彼は、地獄には堕ちない。
「きっと、彼は地獄に堕ちていると思いますよ」なんてコメントをしたら、その言葉は、むなしく虚空に響くだけである。そのような死後の存在を信じていないからこその犯行であり、逆に信じているのは、死後の「無」である。
現世が幸福であったら、「無」は恐ろしいものであろう。いや、禍福がまさに糾える縄のように交互に訪れる状況だったとしても、次の幸福を信じて、大多数の人は死を恐れる。
しかし、この世に「不幸」の像しか見なくなった存在がいて、この世から出れば、「無」かもしれないけれど、「不幸」は消えると考え、その自分の行為に他の者も巻き込みたいと思った場合、その行動を抑止する手立てはない。
そう・・・ないのだ。

長くなった。いつものことだ。
だからこそ、我々は、「虚無」としての「死」と向き合う新たな信仰が必要なのかもしれない。少なくとも、「地獄」のイメージは、抑止力とはなり得ないのだから。何もない「死」という存在に対して向き合いながら、今回のような、虚無へと他者を引きずり込むようなことのない、新たな信仰・・・それは、今が、虚無の時代だからこそ必要なのではないかと思う。既存宗教への回帰ではなく、虚無の時代の新たな宗教の形・・・それは、実は、原始宗教への回帰なのかもしれないが(「千の風になって」はアニミズムですね)。

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ところで、それとは別な話。
私は思うのだが、加藤智大容疑者は「世の中が嫌になった」と語っている。
それに対して、
「これから、同じように『世の中が嫌になった』人に対して一言言いたい。では、どうぞ。止めないから、死になさい。この世の中から出て行きなさい。ただし1人で」と背中を押すようなことを、私は、各メディアから呼びかけてもいいと思うのである。そうすれば、自殺は思いっきり増えるかもしれない。しかし、このような無差別道連れ殺人は減るかもしれない。一件でも二件でも。その方がずっとこの世の中のためにとって、いいことだと、私は信じているのである。

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