シリーズ「東国原知事にだまされるな」その1・・・宮崎県の東国原知事、「げんこつ条例」を提案

宮崎県の東国原英夫知事は18日、学校教育の場や地域での子供との接し方について、「『愛のムチ条例』や『愛げんこつ条例』ができないか。検討に値するかもしれない」と発言した。

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私は、体罰という罰としての暴力は反対である。
しかし、認められる状況はある。
私は教師を生業としているが、以下の場合に関しては、体罰ではなく、生徒を叩くということが必要とされる状況があると思う。

一つは、「他者に対しての不当な行為が止まらず、反復した注意も効力がない場合」
二つは、「即時性が必要な場合」
である。

教師は、言葉を使い、論理的に行いを正す。
ただ、いくら論理的に説明しても、他者に対しての不当な行為が止まらない状況はある。それに対しても、論理的に正すが、それが止まらないという場合は、その反復が止まらない状況を止めるために叩くことはある。子供は成長する段階で、何をやっていいか何をやってはいけないかを学ぶ。幼少期は、言葉で論理的に説明されてもわからないところがあり、そこに、親からの体罰が行われる。ある程度、歳が進むと、それは必要がなくなる。どういう場合に、やってはいけないことに踏み込むことになるかを、子供が自覚するようになるからである。しかし、ある年齢に達しても、その自覚が出来ていないことがある。
この場合、人間として未発達な状態(人間とは社会的な動物である)であり、動物の状態に近い。それに対して、見極めを行い、まだ幼少期の非人間的な状態であると認識した場合、叩くという行為に踏み込む必要が出て来るということだと思う。
しかし、それは、罰として行ってはいけない。気づかせるために、瞬時に行うことはあるということである。

ちなみに、学習内容に関しての体罰は、「他者に対しての不当な行為」とは別物であり「即時性」も必要ない。故に、テストで合格点に達しないとか、宿題をやってこなかったとかを理由とする体罰は、論外である。これは、教師自身の人間的なコミュニケーション能力の否定であり、単なる暴力である。

さて、ところで、今回の東国原知事の提案であるが、これに関しては、私は反対である。上記のようなことで肯定できると考えているのなら賛成してもいいのではないかと思われるかもしれないが、これは、かなりぎりぎりの状況であり、教師がそれぞれの判断で踏み込む領域だと思う。またこれは、教師だけのことではなく、子供に対して大人が対峙した時に全てが共通して判断することであり、教師にだけ特権的に認められるものでも、また、教師だから否認されるものでもない。

そしてさらに、ここで、宮崎県ならではの状況がある。
それは、宮崎県の学校の指導状況が、そもそも、「体罰地獄」の歴史と共にあったということである。

宮崎では、昔から、体罰は公然と行われていた。

例えば、私の通っていた高校では、教師が竹刀を教室に持ち込むのは日常風景であった。教師による体罰も、「殴る」「蹴る」「竹刀で叩く」「本の角で叩く」など当たり前である。授業中によそ見をしたというだけで、力一杯はり倒された。
身体が跳ぶぐらい、殴りつけられるのである。

テストで合格点を取れなかった場合、職員室に衆目の前、並んで正座させられ、頭上から力一杯拳固で殴りつけられた。新設の進学校で、他の高校との競争も激しかったのであろう。おそらく、教師それぞれにノルマのようなものが課せられていたはずである。そのため、教師のそれらの行為は、ひどいものであった。同様な状況は、市内のライバル高でもあったようで、私が在学中に、自殺者が出たところもあった。

このような状況は、高校だけの話ではない。小中学校でも同様で、教師による体罰は日常化していた。殴られて鼓膜が破れたとか怪我をしたとかの話は、枚挙にいとまがない。
同様な状況は、隣県の鹿児島県でも行われていたようである。現在の状況は、よく知らないが、そんなに遠くない過去において、宮崎で、子供たちは教師による「体罰地獄」を味わった。

もちろん、その中には、上記のような定義に当てはまる正当なものもあったであろう。しかし、その多くは、体罰という名を借りた暴力であったと、私は思う。特に、高校においてのそれは、狂気であった。私は、彼らを教師と思っていない。単なる人間のクズだと思っている。

さて、そのような歴史が過去にあった(今も行われているかもしれない)という中での、東国原知事の今回の発言である。
私は、体罰に対して過敏な反応がされる今の状況(クレイマー)を必ずしも良しとはしないが、これが宮崎県のこととなると別である。宮崎では、過去の教師による「体罰地獄」の検証も反省も行われていない。そのような状況であったことが、表に出ることなく、あたかも、過去へのノスタルジーや過去の行為の肯定のように、今回の条例の話が出てくるとしたら、それは、明らかに間違った方向である。

宮崎では、過去、子供たちの多くが地獄を味わっていた。
そして、その地獄を作りだしていた多くの教師(と自分たちのことを思っていた狂った人たち)は、その反省をしないまま教師生活を終えている。
宮崎では、そのような特異な状況であったということを前提として、今回のニュースを見て欲しいと思う。