「誰でもよかった」人たち・・・「秋葉原無差別連続殺傷事件」に関連して

家にいるといろいろな電話がかかってくる。
「今度駅前にマンションがオープンしますので」
「投資のお話しですが」
「家の屋根の葺き替えをすると・・・」
「バスルームの修理を」
「家の耐震工事をされては」

最近、多いのが、「・・・に公園墓地がオープンいたしますので」というような、霊園の分譲の勧誘電話である。
そういう時は、以下のような会話となる。

「誰かが死ぬということですか?」
「いえ・・・あの、もう墓地とかはご準備されていますでしょうか?」
「こちらの方で、誰かが死ぬとかそういう情報を元に電話されているんですか?」
「いえ、電話帳でランダムに電話させていただいております」
「もしかすると、つい最近、身近な人が亡くなったとか、病気で危ないとかそのような状況かもしれないわけですよね。電話先は。そういうことは、どうでもいいんですか?」
「いえ・・・あの・・・特にご希望がなければ・・・」
「そういうお仕事をされていて、良心の呵責とかありませんか?」
この辺で、相手方の電話がぷつんと切れる。

このような電話の場合、相手方の状況はどうでもいい。
非常に切迫した何かを抱えているかもしれないし、何かを楽しんでいる一番ピークの時かもしれない。そういうことはどうでもいい。相手は誰でもいい。単なるカモなのだから。
そう・・・「誰でもよかった」のである。
秋葉原の無差別連続殺傷事件の犯人、加藤智大と同じように。

その秋葉原

電気街口の改札から右に出て大通りの方に歩いていくと、仮設のような店舗で「閉店セール」が連日怒鳴り声を上げている。時計や貴金属を売っているのであるが、毎日、「本日をもって閉店となりました。・・・時で、最後です」と連呼している。秋葉原にしょっちゅう行っている人間には日常風景で立ち止まりもしないものであるが、一見さんには、興味を惹く呼び声であろう。いつも、2、3人がショーケースを覗いている。大声で「閉店セール」を連呼している店舗の中の彼らにとっては、引っかかるお客は、誰でもいい。単なるカモなのだから。騙している罪悪感は彼らにはあるのだろうか。おそらく、ないであろう。問うてみたら、言い返されるだろう。「みんな、やってる」と。

電気街口の改札から左に出て大通りの方に歩いていくと、メイド喫茶の宣伝やアキバ系アイドルの宣伝などに混ざって、絵のギャラリーへと呼び込みをかけている女性たちがいる。これらの絵の商売はあちこちで行われているが、要するに、入場無料でカモとなるお客をギャラリーに引き込み、巧みに、本物の絵を持つことの素晴らしさを語り、お客をその気にさせ、高額の絵のローンを組ませるという商売である。声をかけるお客は誰でもいい。単なるカモなのだから。

「誰でもよかった」のである。
この場合、相手は人ではない。交流はない。自分たちにお金をもたらしてくれる財布でしかない。人格はない。こちらにも人格はない。人と人との交流は、商売の場には必要はない。こちらにお金をもたらしてくれるのであれば、そのカモが人間である必要はない。
そう、誰でもいいのだ。

電話での無差別の勧誘も、この手の詐欺商法も、相手が「誰でもよかった」という点で、秋葉原無差別連続殺傷事件の犯人のそれと、なんら代わりはない。
人をナイフで刺すのとこれらとは次元が違うと思われる方も多いだろうが、「誰でもよかった」という風に人と対峙していない、相手の人格を人格として尊重していないという点では、大同小異なのではないかと私は思うし、また、そういう発想の延長上に加藤智大もいるのではないかと思うのである。