ダイターン3・ノイズ・リアリズム

先日、中野で買ったDVDボックス「ダイターン3」と「ザンボット3」のうち、「ダイターン3」の第一話を観た。前に観たのはいつ頃だろう。
もう、20年以上前になるのではないだろうか。
さすがに久々に観ると、古い。
イデオン」や「ガンダム」を観ても古いとあまり感じないし、70年代の出来のいいアニメは作画レベルでもかなり高いものがあるので、久々観ると、やはりこの頃のもの(それもサンライズの)は古いなぁと思った。ノスタルジーで観る気はないし、別に買わなくてもよかったかなと。
しかし、メガノイドになるのも悪くないかなという三条レイカの軽口にそれまで飄々とした明るい気障男風の破嵐万丈の雰囲気が変わり憎悪をむき出しにするのを見て、「ああ、これこそがまさに」と思った。これこそ、観たかったものなのである。

今、アニメは全体的なレベルが非常に上がっている。作画も演出も。また、志も高い。意欲的な作品が次々に生まれてきている。

30年ぐらい前には、一部の作品を除き、多くのものが欠けていた。作画レベルも演出のまとまりも。しかし、そこには、現実の予定調和に対するノイズがあった。
今、万丈のあのような形での怒りは、なかなかテレビでは観られない。それは、現実に虚構を突きつけるトゲであり、その鋭さは、今、実は失いかけているものでもある。

今、アニメは作品世界としてまとまりがあり、世界として閉じている。しかし、あの頃の作品は、まとまりはなくとも、現実への叫びがあり、現実へとつながりそこを変えていこうという必死の抵抗があった。それは、今、また必要なものなのかもしれない。観ながら、思った。

万丈が人間では壊せないとメガノイドから言い放たれた檻は、今でも、我々の目の前に存在しているのだから。