自己実現・王様・家来

先日、NHKの仕事に関する番組で、若者が会社でたまっているストレスの話。
思うようにやれない。自己実現できないなどの話が挙がっていた。
また、それに関して、秋葉原で無差別殺傷事件を起こした彼の話が出、その中で、会社というのは自分を道具としてしか扱っていないという風に彼が語っていた話も出た。
それに関して、おそらく多くの上の世代が知らないこと、気づいていないであろうことを一つ。

なぜ、彼らが、そのように思うかである。

それは、彼らが王様でないからである。

多くの若者が、今、社会や企業に関して思っていることがある。
それは、
「トップにならなければ何もできない。トップでいない内は、じっと我慢して、トップから言われるままにやらなければならない」
である。
だから、起業しなければ、自由業でなければ、あるいは社員の内はじっと我慢して社長にまで上り詰めなければ、何もできないと考えている。
それまでは、ひたすら、「イエス」と言い続けるしかない。
つまり、彼らの世界観には、王様か家来しかない。

秋葉原での事件の彼の言葉も根は同じ所にあり、「自分が道具としてしか扱われていない」というのは現状への不満ではなく「自分が王様ではない」という意味なのである。つまり、それは、ある特定企業への不満ではなく、社会全体の既定の状態に関しての不満であり、王様ではない自分への不満でもある。家来でいる状態ではひたすら我慢しないと王様にはなれない。しかし、現状、いくら我慢しても王様になれそうにない。
さて、どうするか。
王様を全部、殺すしかないであろう。

学校が荒れている。

さて、その荒れている原因の一つも、上記の世界観にある。
つまり、学校では、なかなか王様になれないのである。

学校の場では、現状に関して素直な子供とキレる子供という風に2種類存在し、また、状況もその子供達の主導権の取り方によって、劇的に変わる。

子供達は、ネゴシエートができない。というよりも、しない。
彼らは、教師の言うことを聞いている時は、家来であると思っていて、全てに服従するものという意識がある。家来だから、現状は絶対のものである。しかし、それは、学校という日常の場では、大きなストレスである。
故に、些細なことがきっかけで、家来は革命を起こす。
王様になるのである。それは、今は、簡単なことである。1人が王様として振る舞えば、それをまねればいいのだから。連鎖的に、皆が王様になっていく。

間がないのである。

コミュニケーションが取れる対等な人間という位置がない。そもそも、王様と家来にはコミュニケーションの必要がない。
この世には、王様と家来しかないという世界観は、数十年前から少しずつ大きくなっていったものであるが、若年層におけるそれはかなり深刻である。

この歪な世界観の原点は、家庭にあるはずなのだが、それに関しての考察は、また後日としたい。