地産地消

毒入り餃子事件以来、「地産地消」という言葉がもてはやされるようになってきている。あまりに中国からの輸入食材に頼ってきていたこと、食糧自給率の低さ(39パーセント)に、安全な食を求める消費者感情が相まっての「地産地消」ブームであるが、私は、この言葉のブームが好きではない。
ここ数ヶ月、輸入食品に対して「地産地消」という言葉を対義語的に使っている報道が多いが、そもそも、我々は普段から、その土地で生産された食品をその地方で消費しているわけではない。例えば、私の故郷は宮崎であるが、最近有名な宮崎の鶏肉や牛肉、マンゴー、日向夏などなどは、宮崎だけで消費しているわけではもちろんない。これら産物が有名になったのは、今の知事のおかげであるが、その知事も、宮崎県内で消費するために広告塔としてかけずり回っているわけではない。宮崎以外の他の地方、特に大消費地である大都市圏での消費を当て込んでの東奔西走である。今、現在、私の住んでいる東京のスーパーには全国から届いた数多くの食品が並ぶ。野菜などでは都内産も見受けるが、その陳列ケースの中の食品(国産)の多くは、東京以外の日本各地から移送されてきたものである。
国内に多様な名産品があり、それらがこれだけ広範囲に流通しているということは、素晴らしいことである。南北に長い弧状列島の日本は、江戸期にその地方それぞれの気候風土に合った特産物を生み出し、それを、航路や陸路で全国津々浦々結び、流通させてきた。そのおかげで、我々は、現在、地域ごとの豊かな特産物を楽しみ、四季折々の味覚を享受している。
私は、東京の店先で、宮崎産の鶏肉や野菜を見かけると、大変うれしく感じる。生産者の人たちはなおさらであろう。
食品のことだけではない。海外のニュースを観ていて、日本の商品が支持されているニュースを観るととてもうれしい。自分のことのように喜んでしまう。それが、単に安いからと言うだけでなく、特別な愛着を持って語られたりすると、誇らしく感じさえする。このような感情はどこの国の人でも同じだと思う。
もちろん、地産地消という言葉の中の、「その地域の地場産業を大事にし、生産者の顔が見える『食』へと立ち返る」ということのプラスの面はよくわかる。しかし、今、地産地消という言葉が使われるニュアンスは、輸入食材への対義語としてのものであり、それは、「国産国消」という風に言い換えた方がいいものである。食糧自給率の低下は、国土の荒廃や食料安全保障という問題とつながるものであるが、それらを「地産地消」という実は実態とかけ離れた虚構の言葉(東京の人間が東京の農産物を食べているわけではない)で言い換えた食のナショナリズムで解決しようというのは、すり替えであると思うし、また、日本の将来にマイナスなことであると思う。
「お米を粗末に扱ってはいけない」「食べ物を残してはいけない」「お百姓さんに感謝して食べる」という日本の中での食にまつわる礼儀に関することの根底にある気分は普遍的にどこの国にもあると思った方がいい(もちろん食習慣での表れ方の違いはある。饗応の場では必ず少し残す文化圏もあるし)。日本が1993年の冷害の折に大量に輸入しすぎたタイ米を処分したときタイの人たちが怒ったのは当たり前だし、今回の中国産冷凍食品(問題となったメーカーの商品だけでなく全て)の撤去でも同様であろう。どうも、日本人には、日本人はさておき外国人は、単に利益のみを追求して商品を生み出しているという考え方がある。それを言ったら、日本人の方が、ずっとお金のみのことを考えて貪欲に海外に商品を送り出していると思われているであろう。しかし、我々は、単にそれだけで日本人が商品を作り出しているのではないことを知っている。貿易摩擦激しき折にデトロイトで日本車が無惨に破壊される光景を見たときに、少なからぬ日本人は、痛みを感じていたと思う。同様なことは、当然、世界中の人の心の中にあると、私は思う。
そして・・・もし、そのような食に対する姿勢が他の国に薄い(私はそうは思わないが)と感じるのであれば、そのような姿勢を世界に発信していけばいいのである。中国のある工場で生産された食品に問題が生じた場合、その工場で生産された食品は撤去処分されるが、その時に、「お隣りの中国で農民の人たちが苦労して作りはるばる日本まで送られてきた食品が残念ながら問題があるようです。日本でしたら事情を話してやむなく処分しますが、心苦しく、まだ撤去したままです。今後、このようなことがあったら、また、同じようなことを行わねばならず、そうなると、作ってくれた方々に申し訳なく思います。いかがしましょうか?」ぐらいの姿勢でもいいと思うのである。もちろん、このような姿勢はグローバルスタンダードと言われているものとはほど遠いかもしれないが、これは決して低姿勢ではなく、ある意味、高姿勢なのではないかと私は思う。
安全な食を外に向かって語ろうとするのであれば、まず、自国の食における安全を突き詰める。食に対する厳しい倫理観を求めるのであれば、まず、自国内において、それを追求する。はたして、今の日本で、それが行われているであろうが。真逆な状況であるのは、ご存じの通りである。
ちなみに、今回の毒入り餃子事件に関しては、私は、ほとんど百パーセント、中国の工場側に何らかの問題があったのだと思っている。そして、それに対して、中国当局の姿勢や見解は間違っていると思う。ただ、その事件に対応しての、日本側の報道や大多数の国民の反応もまた間違っていると思うのだ。
地産地消はある意味美しいイメージの言葉である。自給自足と同様に。しかし、我々は、それとは違う社会を作り出してきたし、また、その違う社会の素晴らしさもまた知っている。夢物語と言われるかもしれないが、世界中の人が、自分たちの作った食料品や商品に誇りを持ち、そして、受け取る方が作ってくれた人に尊敬と敬意を抱く、そんな社会を模索してもいいと思うのである。そのようなイメージを発信していく国が日本であったらいいと。