聖火リレー長野を走る(18.7キロのルートを80人の手でリレー・北京五輪野球日本代表監督星野仙一さんなど)

さーて、いよいよ、今日、聖火リレーが長野を走る。
どういう状況になるかは、全く予断を許さないが、とりあえず、今、思っていることを。
私はかねがね、ネットにおける中国や韓国に対しての蔑視姿勢をすごく不快に感じている。それらの姿勢の多くは、その人のオリジナルの考えではなく、大半と言うよりほとんど全部が、「新しい歴史教科書を作る会」とか井沢元彦の書物やらの無自覚なコピーに過ぎず、自分の頭で、歴史や現象を見当し直したものではない。まあ、今の東京都の知事、世界でも有数の巨大都市の首長が、中国や韓国に対しては稚拙な歴史認識しか持っていないぐらいなので、多くの人が、稚拙な歴史認識、世界観しか持っていないのは、いたしかたないことなのかもしれないが。

以下は、以前、私が、「マゾルナ」というブログで、日本と中国の間がぎくしゃくしていた時期(2005年4月)に書いたものである。そちらを引用(一部改)し、その上で、今回のリレーに関して述べたい。
長文ご容赦を(聖火リレーに関しては、引用文のあとにあるので、必要な方は引用文をとばして、ラインの下からお読みください)。

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私が、このブログ「マゾルナ」で取り上げ、また糾弾しているのは、「自分で動かない。自分の頭で考えない。自分で責任を取らない」というモノの考え方である(この考え方は自分の内部にもある。故に自戒でもある)。
マゾな人は、自分の頭で考えず自分から積極的に動こうとしないので、いざ、自分が責め立てられたときに、論理的に考えることができず、ただひたすら防御にまわるか、もしくは、防御のために相手に攻撃を仕掛ける。大体、他者に対していつでも攻撃的な人間はマゾの人が多いのであるが、今回は、その視点から、近隣諸国との問題を考えたい。

あるブログがあった。そこでは、日本の中国や韓国に対しての姿勢をいろんな形でジョークにしていた。
そこで皆がジョークのネタにしていた日本というのは「何をされても怒らない国」のようである。そして、そのベースとして「なぜ、日本は、何度も謝ってばかりいるのだろう。もっと怒ればいいのに」という気持ちが皆の胸にあったのだと思う。ここ最近の、日本と中国、韓国との軋轢に際しての、ほとんどの日本人の感想にも、それが表れている。
しかし、日本というのは、そんなにきちんとこれまで謝ってきた国なのだろうか?

よく言われていることであるが、日本と韓国・中国の対応・意識の違いは、いじめた方といじめられた方との関係によく似ている。いじめた方は覚えていなくとも、いじめられた方はいつまでも覚えている。足を踏んだ方には足を踏まれた人の気持ちはわからない。「どうした?」「痛いんだよ」「でも、オレは痛くない」というように。
いじめた方は確かに何度も謝っている。謝らなければいけないと皆に言われているし、いじめた相手との関係を修復するためにでもあるので。でも、心からじゃない。心ならずもである。
それを証拠に、いじめた側は、謝罪のあと、同じいじめた人たちの間で、
「あいつら、いつまでも根に持っているんだぜ。やな奴らだ」
「そもそも、オレはあいつをいじめてないんだぜ」
「いじめを誇張して言いやがって。でたらめだよ」
「あいつには随分いいこともしてやったんだぜ」
「他の奴もいじめてたんだ。オレばっかりじゃない」
「あの頃は、あいつらをいじめるのが当たり前だったんだ」
と陰口ばかりを叩いている。
信用されないのが当たり前である。私が韓国人中国人でも、そんな日本人は信用しない。

故に、「なぜ、自分が生きてなかった頃のことを持ち出されていつまでも謝らなければいけないのか」という大多数の戦後世代が持つ疑問、憤りは、それは、「謝れ」と日本に対して訴えかける国々との間の国際問題ではなく、「きちんと謝ってこなかった」日本の中での国内問題である。

「いつまでも謝っている」のではなく、「ぜんぜん謝っていない」という事実を見つめた上で、のちの世代は、上の世代を糾弾し謝らせなければいけない。その大戦で何が行われたかをきちんと検証し、問題があったらその償いや謝罪をさせ、そして、時にはその名誉を剥奪する必要がある。場合によっては、墓穴に入っているその躯(むくろ)を掘り出し、さらしものにしなければならない。

また、同時に、自分たちの前の世代が戦前行ったこととを戦後きちんと検証できず、また、検証できないまま今まで持ち越してきてしまったことは、自分たち戦後世代のこととして反省し謝罪すべきであろう。のちの世代は、この国の恩恵で、今、生きている以上、自分たちの国の歴史の過去に過ちがあった場合、それをきちんと検証すべきなのである(謝罪ではない)。それができていないことは事実であり、その点で、のちの世代の責任は大きい(こちらは謝罪すべきこと)。「戦前のことなんて自分たちには全く関係ないよ」という人もいるであろう、それならそれでいい。その人は、人里離れて、日本の過去の文化的、社会的な蓄積の恩恵を何も受けない生活をしてほしい。全てのライフラインを閉ざした上で。人は、社会の中で生きている以上、過去の恩恵なしには生きることはできない。我々が思考するこの言語はもちろん、生活、文化、豊かさ・・・全てが過去の蓄積からの恩恵である。

ところで、では、なぜ、日本は「謝ってばかり」という誤った認識になるのであろう。それは、日本人の大多数が『マゾ』だからである。マゾ故に、自分たち(もしくは過去の世代。過去の日本)が相手に対して苦痛を与えたという事実を認めたくない。加害者であるよりも被害者でありたい。果てには、「俺達はこんなに謝っているのに、いつまでも謝れというのは、お前達が悪い」とまで言う始末である。どこまで被害者意識が強いことか。ここで持つべきは、きちんとした加害者意識である。間違ってもらっては困る。ところが、マゾは、精神が脆弱なため、相手に自分の非を責められると、自我を守るため、相手を責め始める。自分が悪いという位置に立脚できないのである。「私が悪いんじゃない。あなたが悪い」というわけである。

例えば、戦後教育や教科書マスコミの論調などを「自虐史観」と非難している人たち(今回中国で非難されている扶桑社の歴史教科書を作っているメンバー・「新しい歴史教科書を作る会」など)は、こう主張している。
「なぜ、自分たちが加害者であるという意識、歴史観自虐史観)を教科書などで若い世代に教えようとするのだ。これは歪んだ認識である。日本が 1945.8.15より前に近隣諸国に対して行ってきたことは、悪いことばかりではなかった。その国の近代化に貢献することも多々あった。また、日本が行ったことは、欧米諸国も行ってきたことである。日本は自国の利益を守るため、半島、大陸へと進出した。日本がその際に行ったことで非人道的なことが行われたというそのデータは誇大に捏造されたデータである。また、自虐史観では、自国の歴史を否定するあまり、国民の愛国心が育っていない。どこの国でも愛国心教育は行われており、これは異常な状況である」
これをかいつまんで言うと、
「自分たちは悪くはない。他の人もやっていることだ。それに、自分たちは相手のためになることもやったのだ。また、自分たちがやったことで相手が言っていることは誇張されている。自分たちが悪いということだけなく正しいこともあったと、もっと教育の場では教えるべきである」
これを、「いじめ」に当てはめると非常にわかりやすい。他の人もやっているし、自分たちも被害者であったと。要するに、加害者であるという位置に自分たちを置くことができないのである。まさに、マゾ精神の典型であろう。

日本が占領地に対して行ったことで、その国の利益になったことも、それはあろう。しかし、例えば鉄道敷設などにしても、それは何より、帝国陸軍を目的地へと移動させるために必要欠くべからざる設備であったわけで、この点、他のインフラ整備も同様である。韓国に対しては、その占領下で、創氏改名、強制連行、そして皇民化政策などで、韓国の人々の文化、尊厳を踏みにじり続けた。例え、どんなにその国にとって益となることがあったとしても、それは一方的な押しつけであり、植民地とされた国からすれば、その益となった部分も含めて、一刻も早く、消えてなくなったほしかったはずである。また、仮に益になったことがあり、それをその植民地下や占領地下にあった国民で感謝している人がいたとしても、占領、支配をしていた方の国民が、それを殊更に並べ自画自賛するなど、品性下劣なことである。
欧米諸国も同様なことを行ってきたというのは、まさにその通りである。だから、日本も・・・というのは、これこそ低劣な論理であろう。他の国を植民地化しその国の主権を侵害していたということを他の国も行ってきたということに関しては、「だから、日本の行為も肯定される」のではなく、「だから、他国の行為も否定される」のである。植民地政策に関して、日本は自国の歴史を肯定するのではなく、自国の行為も否定し、同時に、他国の行為も否定すればいいことである。もちろん、同時に、その植民地化政策において、日本が具体的に個々の民衆や社会に対して何をなしてきたかも、洗いざらい表に出す必要がある。自分たちの父祖がどのような行いをしてきたかを、完全にディスクロージャーするのである。恥じることはない。自分の行為ではないのだ。むしろ、それを表に出さずに隠蔽しようとしたら、それこそが、恥ずべきことである。
誇張され捏造されたデータであるということは、よく言われることである。しかし、よく考えて欲しい。足を踏んだ方の記憶と踏まれた方の記憶は、どちらが状況をより正確に伝えているだろうか。それに、例え、中国のように、戦後冷戦下のイデオロギー対立で情報戦になり、データに捏造が混ざる可能性があったとしても、核となる真実がなければ、そのデータの改変はできない。日本軍が、半島や大陸、占領下のアジアの各地域でどのような残虐な行為を行ってきたかということは、体験者の事例により無数に報告されている。一つ、南京大虐殺だけが捏造ということはありえないのである。それにそもそも、日本軍の組織がいかに「いじめ」体質に満ちたものであったかは、日本人自身の従軍体験として、枚挙にいとまなく、戦後、手記日記などの記録として公式非公式に数多く残されている。それら全ての体験記から読みとれるのは、「日本軍がいかに『いじめ』体質の塊であったか」である。その軍隊が、占領地や戦争状態の中でだけは紳士であったとまともに考える人がいたら、それは、論理的に物事が考えられないか、あるいは、歪んだ精神の持ち主である。
愛国心』とは、自国の行ってきたことを正統化することによって作り上げられることではなく、自国の行ってきたことをきちんと認識し、何が正しく何が間違っていたかを検証することにより、初めて生まれてくるものである。明らかに歪んだ自己肯定によって作られた愛国心などは、自国にとっても他国にとっても迷惑極まりないものであろう。愛国心教育がなされれば国民が愛国心を持つようになるという発想は、「みんな、お父さんを尊敬するように」と子供に言う親のようなものである。誇るべき親なら、自然と子供は尊敬する。先に、「尊敬しろ」というべきものではない。母国の人々、山河、文化などに対する愛情、愛着を愛国心と呼ぶのだとすれば、それは、その国が心豊かでよき人々の集う国となれば、皆、自発的に持ちうるものである。国家によって、無理矢理作り上げることのできるものではないし、してはならない。ちなみに、例の教科書では、殊更に、「日本の文化の優越性」をあげつらっているが、そこには、曲解が多く、また、「ヨーロッパのこれこれに勝るとも劣らない」的な表現が多い。欧米へのコンプレックスから成り立っているのであろうが、そんな低劣なひけらかしをやっていても、その教科書で学ぶことにより愛国心が育つわけではない。育ったとしたら、それは、歪んだ愛国心である。

以上のように、「日本人が謝ってばかりいる」と主張している人々の物事の考え方は、非論理的であり、その非論理的な主張(それらは多くの日本人にも共通なものであろう)を彼らになさせているその、ものの考え方を生んでいるものは、「加害者であったよりも被害者であったと考える方がいいというマゾ精神」である。それでも、まだ、あなたが、日本は謝ってばかりであったと考えるのであれば、それは、あなたの知識不足か、あなたがマゾ故にマインドコントロールを受けているのである。

我々は、このようなマゾ精神から脱皮し、きちんと「加害者であったという事実」を直視し、過去を検証すべきであろう。検証というのは、なにも公だけでやることではない。例えば、終戦記念日間近には、テレビで、太平洋戦争その前後を取り上げたドキュメンタリーやドラマなどいろいろと放送されるが、そこに描かれているのは、被害者としての日本ばかりである。加害者でもあったという事実を、日本人自体がきちんと認識していないし、検証もできていないのである。多くのドラマで人々は「自分たちはだまされていた」と言う。では、誰がだましていたのか。一人の人に皆がだまされていたはずがない。皆が、だまされていた一方で、次には誰かをだましていたのである。自分で情報を検証せずに、その時々で細かな妥協を繰り返してきた結果が、悲劇へとつながっていったのである。そして、それは現代でも同じであろう。今、北朝鮮の歪んだ世界を連日のようにテレビのニュース、ワイドショーなどでは、特集してやっている。しかし、よく考えてほしい。あの北朝鮮の歪んだ世界は、日本の終戦前までの世界と同様なものであったはずなのだ。なぜ、その類似性を特集し今の世代に伝えようとしていないのだろうか。ここには、悲劇へとつながる曖昧さ、妥協が潜んでいるのだ。

ところで、そもそも、根本的な問題に立ち返って考えて欲しい。それは・・・

「日本がいくら他国に対して低姿勢で謝ったからと言って、それは、あなたが謝っているわけではない」
ということである。

領土問題でもそうなのだが、領土が増えた減ったで、あなたの地所が増えたり減ったりするわけではない。「しかし、日本の国益が・・・」と考えるあなたは、その国益のことを常に考えて、ニュースや、個々の事象を見ているのだろうか。「でも、領土問題では漁業の・・・」と考えるあなたは、そもそも日本政府が農業に比べて常に漁業従事者のことを軽んじ続けてきたという事実を認識しているのだろうか。領土問題で漁業のことを殊更に語る政府側の人間は、国民が納得しやすい建前を言っているだけである。それにそもそも、あなたは、日本の漁業のことをそんなにも考えてこれまで生活をしてきた(例えば、必ず外国産ではなく国内産の魚を買うとか)というのだろうか。
謝罪の話に戻ろう。謝罪して、相手に対して自分が低いものになってしまったと思うのは、それは、自分に自信がないからである。本来、自分の非をきちんと見つめる者のみがきちんと謝罪できるものである。また、前述のように、そもそも、国の謝罪は、あなたが謝罪しているというわけではない。国が謝罪している時、それをあたかも自分が謝罪しているように感じるとすれば、それは、あなたの意識が国に依存しすぎているということである。冷静に考えて欲しい。メンツや過去への間違った歴史認識のもとで、きちんと他国に対して謝罪できないという場合に、それが、いかに国益を損なうことになるかを。そして、この場合の、損害は、抽象的な国益という問題だけでなく、まともにあなた方個々人にふりかかってくることになるのかもしれないのだ。

ところで、竹島のことであるが、私は、この島は韓国領土と正式に日本が認めた方がよいと考えている。例え、曖昧な部分あったとしても、日本がそれを認めるということにより、米ソ冷戦の狭間で曖昧に終わってしまった日本の朝鮮半島占領中の諸事に関する賠償の意味を持たせることもできる。そもそも、日露戦争終結の1905年に日本の領土として宣言したというのが国際的に日本の領土であるという大きな根拠なわけであるが、ロシアの朝鮮への影響が外れたこの年の宣言は、明らかに後の韓国併合(1910)とセットなわけで、韓国が解放された1945年8月15日をもって、竹島の日本領土宣言も白紙化したと考えるのが妥当だと思う。もちろん、その海域で日本の漁業関係者が円滑に操業できるという条件をつけることは必要なことであるが、今のような膠着状態から大きく前進できることは確かであろう。

さて、以上のようなことを書いている間に、中国での暴動事件が起きてしまった。(2005年4月のこと)
まず、今回デモに参加し日本料理店や日本車や日本企業の看板を破壊した中国国民に言いたい。

「マゾるな」

あなた方が行った行為は、南京大虐殺で日本人が行った行為と同じである。
多勢をもって反論の余地を与えず行った単なる暴動破壊行為であり、そこには、歪んだマゾ精神がある。よく言われているように、自国内での言論統制による抑圧が引き金だとしたら、それは、弱者(個々の日本企業や、日本車に乗っている個人)に向けられるのではなく、その言論を抑圧している政府自体に向けられるべきものである。
愛国無罪」という言葉があったが、この言葉自体が、まさにマゾ精神であろう。罪となるかどうかは、個々人が考えるべきもので、他者に預けて判断すべきものではない。

それはさておき、では、主張していることに関してはどうかというと、私は、概ね、その通りだと思う。

のちに稿を改めて論評するが、靖国神社公式参拝はすべきではないし、扶桑社の教科書は偏向しているし、歴史問題における日本の見解は歪んでいるし、きちんと謝罪もできていないし、その上で常任理事国入りをしようと積極的に今、働きかけているのも間違っている(常任理事国という戦勝国による体制ももちろん間違っているのであるが)。

デモにおける中国国民の行為は間違っているが、主張は正しい。

さて、日本で、その主張の正しさをきちんと受け止めて、その上で、歴史の検証をきちんとできるか・・・そこが問題であろう。

日本国民は、「マゾ」から脱却できるのだろうか。

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以上である。さて、今回の聖火リレーに関してであるが、上記のような認識の上で、中国人に言いたい。

「マゾるな」

今回の問題は、チベットで起こったことが民族解放運動であるが暴動であるか虐殺であるかにあるのではない。問題は、海外に長く注目され、その動向に関心を向けられていたチベットで起こった事件に対して、海外メディアが自由に取材できず、正しい情報を得ることができないことにある。あたたたち中国人の代表である政府は、報道の自由や国内における表現の自由、思想の自由など多くの基本的人権を尊重していない。その象徴が、今回の事件である。政府は、それらが一部の過激なダライ・ラマ派の煽動によるものであると主張しているが、そうかどうかは、あなた方の政府が判断することではない。自由にそのことに関して語れる民衆やマスコミ、外国という他者の目、それらが複合して判断するものである。こういう意見に対して、反論があるかもしれない。どこの政府も、その国にとっての都合の悪い情報は隠蔽していると。例えば、チェチェン紛争でのロシアはどうだとか主張するかもしれない。そう・・・それらのことも同様に「間違っている」のである。だから、情報統制するのが中国政府だったらその政府は糾弾されるべきだし、また同様な情報統制するのが日本政府だったらその政府は糾弾されるべきなのだ。特に、検証としての、第三者の目。海外のジャーナリストに対しては、無制限に近く、情報は開示されなければいけない。
1932年に建国された満州国という実質日本の植民地であった国を国際連盟が調査しようとしたとき、その情報を徹底的に操作し日本にとって不利な事実を隠蔽しようとした。この部分だけとっても、私は、大日本帝国の政府は殲滅されるべきだったと思うし、現代、同じようなことを行っている国の政府においても同様だと思うのである。
今、聖火リレーへの各国が行っているバッシングに対し、中国ではナショナリズムが台頭してきている。私は、そういうナショナリズムの思想で、自国を擁護し、他国に対して不買運動や抗議活動を行っている中国人を糾弾する。あなた方は、戦う方向を間違っている。非難すべき相手は、情報を統制し検閲しているあなた方の政府であると。

さて、それとは別に、聖火ランナーに関しても問いたい。

「なぜ、あなた方は、走るのか?」と。

「オリンピックと政治は別物である」なんて戯言はよして欲しい。元々、開催国内だけを走るはずであった聖火リレーアテネでは採火国であっため他国を回った)が五大陸を回るなんてなるのは、立派な国威発揚行為であるし、それが例えば純粋なる人類の平和の祭典などという主旨だったとしても、それは、序盤で否定されたものである。そして、この聖火リレーは、
「誰も見ていない空間を走る」
「何度も消される」
「人々とふれ合えない」
「人々の聖火をつないでいこうという気持ちよりも聖火自体を安全に運ぶという事実だけが尊重される」
など、すでに聖火としての意味を全く失い、中国の威信だけをつなぎ運ぶ道具となっている。
百パーセント、政治的なモニュメントである。聖火ランナーを務めるということは、そのような政治的な示威行為に荷担するということである。最初から決まっていたかどうかは問題ではない。このような問題となって、それでも聖火ランナーを務めるということ自体が、政治的な行為なのだ。それを踏まえた上で、それでも走るというのなら、それはその人の判断である。
しかし、どのように言葉を費やそうとも、それは、
「中国政府が、チベットで行ったことに関しての情報を閉ざしているということに関して、私は、それを肯定する」というメッセージの元で走っている。
そのことを忘れないで欲しいと思う。
そして、このイベントを見ている人にも、同様なことを心に刻んで欲しい。
今、画面の中で走っている聖火ランナーは、
「中国政府が、チベットで行ったことに関しての情報を閉ざしているということに関して、私は、それを肯定する」というメッセージの元で走っているのである。