主権国家という間違い

昨日の記事の補足です。あわせてお読みいただければ幸いです。

主権国家という概念は、弱者を守るためではなく軍事的な強国(帝国主義国家)がお互いの利益の相互不可侵のために生まれたというのは、ご存じの通りです。これは、日清戦争後に唱えられた門戸開放機会均等と同様な理念に基づく言葉で、つまりはお互いの行動(戦争も含めて)に関して他国は口出しするなということです。この概念には国家の利益ということはあっても、国民・・・というよりも市民の利益という概念は含まれていません。
独裁専制国家の多くは自国の主権を主張しますが、そこには市民の利益はなく、よって、国際社会(未来の)からは否定されるものだと考えます。

一方、国民主権という言葉があります。主権が国民に存ずるということ。
国民主権とは、その国の政治を直接的にせよ間接的にせよ国民が自由意志で選べる状況が保証されているからこそ成り立つものであり、その国民主権が成り立つ状況があってこそ、初めて、その国の行った行為の責任はその国民にも課せられるものとなります。

よく私は生徒に、
国民主権国家では、その国で、例えば警察官が撃った弾で人が死んだ場合、その人を殺したのは国民であり、死刑囚を絞首刑に処しているのも国民自身である」
と説明します。ですから、私は、もし、ある国民主権の国家が他国に対して核兵器を使った場合、その国の国民は皆、極刑にすべきであると考えています。二億人の人口の国が核兵器を使った場合、二億人の絞首刑(電気いす?薬?銃殺?)ですね。核とはそれほど恐怖の兵器であり(人を殺す点ではナイフも核兵器も等価ですが)核に関しての抑止はそれぐらいの意識を持つべきだと思うのです。
つまり、国民主権とは、
「もし、自国が、他の国に対して取り返しがつかないような災厄をもたらしたときは、その代償を払わねばならないので、必死に自分たちの代表者を選び監視しなければならない体制」
であるということを、もっと国民が自覚しなければならないのではないかと。

私は、国民主権に対して、そのように認識していて、だからこそ、大切にしなければならない概念だと思います。

では、国民に主権がない国家はどうか。

それは、この世からできるだけ早くに消えるべき国家体制だと思います。
主権を国民が持たない場合、国民が国家の行ったことに責任を持たなくてもいいということになります。そして、それがどのような災厄をもたらすかということを、我々の国は過去に経験しています。

国民が主権を持たない国は、国家ではなく、その国の主権は国際社会において認められないということを、これからの世界の標準原理とすべきだと、私は思います。そして、国家ではない権力が、市民の基本的人権を著しく侵害している場合、それは、国内における児童虐待とか監禁と同様な状況です。国際社会は、あらゆる手だてを使い、その囚われの人々を救い出さなければなりません。つまり、戦争とはそういうことであり、ここには、国家の利益とは離れたところでの戦争という概念への移行が含まれています。

日本の憲法九条で言うところの戦争放棄、交戦権の否認をさらに拡大し、「世界中のあらゆる国家が自国の利益により戦争を行うことを否認する」ということです。
ですから、日本は、自国の軍隊の指揮権を放棄し、上記のような理念を元に活動できる国際的な機関にそれを委ねます。そこには、「もし、日本が将来、世界にとって驚異となった場合、自衛隊が日本を攻める」という権利をも与えるという覚悟の上でです。

北朝鮮の国家体制を倒すということは、上記のような理念と覚悟により、成さねばならないと考えます。

十九世紀においては、ある国家がその国の国民の主権を認めていなくても、それはその国の領土内に住む市民に限定した災厄でありました。しかし、核兵器やBC兵器など、人類自体の破滅をももたらすような兵器を個人や小集団でも開発できうる現代、国民にまっとうな形での主権(基本的人権の尊重が前提)を与えていない国家は、存続させること自体が、世界の災厄です。
国家の利益ではなく、世界の市民の生命を守るという理念を元に、可能な限り、その監獄国家に囚われている市民の生命を損なうことの少ない方法で、迅速に、その体制を除去することが、必要なのではないかと考えます。

そういう理念で、独裁国家に、国際社会が団結して当たった場合、そもそも戦争状態にならないのではないかとも考えています。大事なことは、国際社会が、どのような理念で、そのような国家に対峙するかなので。

その点で、私は、与党、野党、マスメディアで語られている評論家などの論調も、ほぼその全てが、間違っていると思うのです。