「小学生クラス対抗30人31脚」という醜悪な催し物

テレビ朝日が主催で毎年行われている競技に「小学生クラス対抗30人31脚」というものがある。今年も行うということで、今日は昨年の総集編のようなものをやっていた。
この企画が始まった当初から思っていたことであるが、これは、非常に醜悪な競技である。
30人31脚という競技の醜さは、連帯責任というその要素があまりに強いというところにある。1人の人間が転倒したら、今までの努力が全て無駄になるのである。このプレッシャーはとてつもなく大きい。実際転倒したことにより、生涯残るであろう心の傷を負った子供が数多くいるに違いない。
そのような連帯責任は実社会にたくさんあると思う人もいるだろう。しかし、実社会における連帯責任とは、その人が自分で選択したことによる、ある程度自己責任負う責任である。ところが、義務教育内においては、その連帯責任を回避する術がない。
もちろん、人数構成(30人より多いクラスも多いであろう)から、希望者という体制をとっているところもあるかもしれない。しかし、その場合、多くの時間をその練習に費やしているクラスの集団の中で自分だけが埒外におかれる。この疎外感は大きい。実際、大半の参加クラスが、全員練習を行い、その中から選抜で30人が参加となっているであろう。この場合、「これまで練習した私って何?」という意識をも生むだろう。代表者が参加で他の者がバックアップということは、これも社会にはよくあることだ。30人に選ばれなかった者も一緒に走っているんだという言い方もよくあるが、1人1人が社会の中でそれぞれの役目を果たしているとか、選ばれる者もあれば選ばれない者もあるとかいう意識を、このような競技で体験することが果たして適切なのであろうが。適切だと教育者は考えるのであろうか。
「お前たちは、本当にやる気があるのか」と担任の教師は叫ぶ。叱る。子供たちの多くが「はい」と大きな声で返事をする。その掛け合いの中で、「自分はやりたくない」という声は押しつぶされる。同じような掛け合いは、戦前には多くあったことであった。この辺、何ら変わらない。
全国大会の中でも、転倒し、今までの努力が無駄になってしまった小学校がいくつかあった。皆、泣いていた。泣くどころじゃない思いをしたのは、全体が転倒するそのきっかけとなった生徒であろう。誰が転倒したかは、すぐにわかる話である。もちろん、多くの子がいたわりの言葉をかけたであろう。しかし、その子供が練習にそれほど熱心でなかったら、いたわりの言葉は非難の言葉に変わっていくであろうし、また、一生懸命練習してきた子供だったら、その後悔の念はどれほど大きいことか。生涯つきまとうであろう。

この社会は、人と人との結びつきでできている。それ故、それぞれが自分の責任を果たさなければいけないことも多く、また、役割もまちまちである。学校という場は、そういうことを学ぶ場としても存在する。
しかし、その場合に生じる責任が子供に過度に生じることは避けなければいけない。
それぞれが投じる努力が意味あるものであること。
何かを行う場合に必ずいくらかは生じるであろう失敗が、過度に負担になりすぎるものではないこと。
それぞれの個体差が教育を受けている環境において尊重されること。

これらは、「皆が協力し合って一つのことを成し遂げること」以上に、大事なことである。1人がみんなのためにということを大事にするあまり、1人1人が個々の人生を生きているということを軽んじてはいけない。

実際、子供は、連帯責任下で一致団結して一つのことを成し遂げるということに喜びを感じることは多い。そして、また、それを主眼にしてクラス経営を行うと、指導している教師としてもやり安いであろう。しかし、そのような一致団結という意識の元で少数派の意見は封じ込められ、また、一致団結できるのであれば、その団結する対象自体の是非が問われないという悪しき面もあることを、教育者は忘れてはならない。例えば、カンボジアポルポト政権下で大量虐殺を行ったのは洗脳された少年たちであったし、ドイツナチス政権下のヒトラーユーゲントも同様であろう。戦前の日本でも子供達は非国民をあぶり出す先兵でもあった。教育というのは、やり方によっては、個々の意見を抹殺し、一つの方向に洗脳することも可能なのである。
教育というものが、そのような恐ろしいものであるという意識を、「小学生クラス対抗30人31脚」に参加している小学校の先生たちは持っているのであろうか。おそらく、持っていないに違いない。その陰で多くの小学生が、苦痛の時間を過ごし、また、場合によっては一生残るであろう精神的な傷を心に負う。なんと罪深いことか。
彼ら教師は、教師ではない。人間のクズである。

余談であるが、ウィーン少年合唱団では、ソリストの子供が過度にスター意識を持つことを避けるように教育する。皆が支え合っているのであり、1人のために合唱団があるのではない。スターはいらないのである。だから、スター気取りになった子供は、いくら実力があってもソリストから外される。ある年齢の子供にとって、スター意識は、その成長にとってマイナスだと考える。この指導方針は、合唱団自体が教育機関であるという認識から成り立っている。

「小学生クラス対抗30人31脚」に参加している小学校は、果たして自分たちのところが教育機関という認識があるのであろうか。